夜よりも暗い、闇の中で意識が浮上した。
 冷たく、湿った空気が身体に纏わりつく。
 右手と足元には僅かに湿った石の感触がある。

(……どこ、こ?)

 ふと、レイは考えた。
 暗くて、レイの目には何も映らない。
 顔を動かそうとして、初めて身体が動かないことに気付いた。

(え? ええ? 何で?)

 指1本、自分の意思では動かせなかった。
 混乱するレイに、荒い息遣いが聞こえてきた。

(?)

 低く、潜めるように、呼吸の音が聞こえる。

(ううん……これは、聞こえるんじゃない……)


 響くのだ。
 レイの“身体”に、呼吸が響く。
 同時に。

「落ち着け……」

 くぐもった声が、“レイ”から漏れた。

(!?)

「落ち着け……今を逃せば、次はない……」

 自分から放たれる呟きに、レイは驚いた。
 そう、これではまるで、違う人間の身体に、入り込んでしまったかのようだ。

 レイの混乱をよそに、レイではないその人物は、深呼吸を繰り返して自分を
落ち着かせていた。
 すぐに、動きも感じないほど穏やかに呼吸を始めた。
 今はただ、高揚感だけがある。

(何なの、これ……)

 レイには、自分の置かれた状況が全く分からなかった。
 ただ、誰か別の人間の感覚を共有していることだけは、漠然と理解した。

(私は――……観客か)

 感覚は全て、伝わってくる。でも、決して身体の主導権を握ることは出来ない。
 それが、今のレイの状況だった。










              ○ 理屈屋の魔術書 ○

01-02








「――ぞ」
「はっ」

(?)

 どこか遠くの闇から、声が響いてきた。
 レイが宿っている人間――宿主が、そちらに注意を向けたのを感じた。

「本当に、此処なのか?」
「間違いございません。秘すべきものと考えられているからこそ、このような場
所にあるとは思いますまい」
「それはそうだが……まあいい。急ぐぞ」
「はっ」

 それは、男性二人の声だった。
 一方は若く、もう一方は中年ほどの声。

(何か剣呑な会話だな)

 そうレイが思っていると、宿主が唾を飲み込み、手に握ったものをより強く握
りしめた。

(……え?)

 手には、重い何かが握られていた。
 闇に慣れ始めた瞳に、微かに映る影。

(短、剣……?)


 宿主の手には、きつく、短剣が握られていた。


(え? ええ? ちょ、ちょっと待ってよ……)

 息を潜めて、緊張しながら短剣を持つ人間。
 どう考えても、ろくな状況じゃない。

(これで今からサバイバル料理とか)

 何とか気楽な方向に想像しようとしたが、無理だった。
 考えているうちに、宿主が音もなく立ち上がった。
 中腰で、極力足音を立てないように歩き始める。
 それは、先ほど2人組みが消えた方向と同じだ。

(や、やめてやめてよ……?)

 レイの嫌な予感と反して、宿主は着実に道を進んでいく。
 整備された石畳の床を、音を立てずに進んでいき、視界の一点に明かりが映っ
たところで、再度柱の影に隠れた。
 特徴的な凹凸のある柱の後ろで一息ついてから、そっと、明かりの方向を見や
る。

「憶えているか?」
「勿論ですとも。このためにわざわざ参ったのです。忘れるわけがありません」

 中年男性の声と共に、何か作業をする音が聞こえてくる。
 それを確認して、宿主は胸元から小さな金属の輪を取り出した。
 指輪を直径5センチほどにした輪を、目の前に掲げ、輪から明かりの方向を覗
きこんだ。

(!?)

 その輪から覗く範囲だけ、景色が拡大した。
 松明でうっすら照らされた誰かの手元が見える。

(望遠鏡みたいな……これは……魔道具?)

 体があったなら、間違いなく今、レイは大きく目を見開いているだろう。


 この世界では、魔法は普及していない。
 魔法や魔道具は、はるか昔の技能、技術であり、今では一般には出回っていな
いのだ。
 何が原因で廃れてきたのかは謎だが、今ではごく僅かな権力者がその秘法を掌
握しているだけで、レイのような庶民には自由自在に扱うことの出来ないものだ。

 魔法を使う人間は、貴族や王族、聖職者に限られ、魔道具を作ることのできる
人間も同様に限られる。
 一般人が見ることのできる魔道具など、一部に出回る照明程度のものだ。



 そんな見た事のない魔道具が、今、目の前にある。

(魔道具かあ……うちの店なら、いくらで買取ってくれるかな)

 リアリストと貧乏性をデフォルトとしているレイにとって、魔道具は換金対象
だった。

 欲望丸出しの興味で見守っていたのだが、宿主はその“誰かの手元”を注視し、
作業の手順を憶えているようだ。
 そしてその誰かが作業を終えた瞬間、辺りには重い岩を引きずるような音が鳴
り響いた。

(あ!!)

 同時に、音もなく宿主は柱の影を飛び出した。


「っ!?」


 飛び込んだ先、たった一つの明かりが灯されている広間で、宿主は力の限り右
手を突き出した。

「ぐあっ!!」

 低い、かすれた声が煩いほどに耳に入り込む。
 空気が動き、何かが足元に倒れた感覚だけが伝わる。

「ドイス!?」

 ほぼ同時に、若い男性の叫び声と、金属の摩擦音が聞こえた。

(え……)

 突如身体を振り回されるような動きをされ、混乱していたレイの意識は、その
音と感触に引き戻される。

(あたた、かい……)

 宿主の、いや、レイの右手が、何か温かい液体で濡れていた。
 そんなレイを置いて、レイの“身体”は、次の標的を狙って斬りつけている。

(なに、やって……?)

 キンッと、繰り返し金属音が鳴り響く。
 右手に何度も衝撃が走るが、不思議なことに痛みは感じない。
 それこそ恐ろしいほどに、レイの“身体”は腕が立つのだろう。

 不意に、レイの“身体”は身をかがめ、身体ごと右手を突き上げた。

「お、前は……っ!?」

 若い男性の、驚愕に歪んだ声が耳に入り込んできた。
 男性の身体が、攻撃を受け止めて大きく体勢を崩す。

 レイの“身体”は、それを見逃すほど人情的ではなかった。
 右手を痛いほどに握り締め、前方に向かって突き出した。


「く、あ……っ!」


 息を漏らす、男性の声が響くと同時に、レイの“身体”、右手の先にある短剣
が、何かに埋まって動かなくなった。

 “レイ”は、手を剣から放した。


 どさ、と倒れる音。金属の、落ちる音。


 再び、温かい液体に濡れた右手で、隠れて輝く松明を手に取った。


(ひっ!!)


 やさしい火の光に照らされた“レイ”の手は、赤く、濡れていた。

(ま、まさ、まさ、か……)

 考えたくのないことだったが、それ以外に、答えはない。
 混乱と、何よりも大きな恐怖で麻痺するレイを気にかけることなく、“レイ”
は松明を持って、若い男性を見下ろした。


 それは、銀色の髪をした、若い男性だった。
 仕立てのよい白い服に、高価そうな装飾品。一目で、貴族や何かしら高貴な血
筋に連なる者と思われる青年。

 優雅に微笑んだならば、街の娘の関心を一気にさらうであろうその男性は、も
う注目を受けることはない。

 閉じられた目。
 呼吸を止めた唇。
 動くことのない体。

 均整の取れた上半身には、黒い金属を不気味に光らせた短剣が、生えていた。
 剣を彩るのは、不吉な赤。血の色。


「――意外にあっけないことだな」


 無機質な声で、“レイ”は呟いた。

(なん、で)

 平然と、“レイ”は殺した相手を見下ろした。


(やだやだ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……っ!!)


 纏わりつく、温かな血。
 人を刺した感触。
 死に逝く者の最期。


 レイは頭を真っ白にして、叫んだ。







「いやああああああああああっ!!!!」




 




 


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