○ 冬と雪と想いの ○







Saturday


 ふっと、目が覚める。
 静かな、物音一つしない空間。

「朝……」

 ココノエは、のっそりと身体を起こした。
 すぐ近くにある時計を引き寄せ時刻を確認すると、すでに昼を回って
いた。
 折角の休みなのに半日無駄にしたとばかりに、ココノエは温かい布団
の中から寒々とした床に足をつける。

「寒っ……」

 どうにもやる気が起きず、パジャマのまま洗面所に向かう。

「……げ」

 鏡には、否応なく凄惨な寝起き顔が映された。
 訳も分からず泣きながら眠ったせいか、ココノエのまぶたは膨らみ、
赤くなっていた。
 一目で、泣いた後だと分かる。

「うぅ……目が両生類っぽい」

 色んな意味で、ココノエは再び泣きたくなった。

 どうにか顔を洗ったココノエだが、リビングのソファ(心優しき友人
からのお恵み品)に座ったまま、ぼけっとしていた。
 我にかえると、既に起きてから一時間が経っている。

「…………」

 眉間に皺を寄せ、獣が威嚇するようにうなった。

「〜〜だあっ!!」

 いきなりガバっと立ち上がる。

「ダメダメダメッ! こんなうじうじしててどうすんの! 何か変わる
わけでもないのに!!」

 そう考えると、少しだけココノエの気分は上を向いた。

 一晩泣いた意味は、ココノエにはまだ分からない。
 でも必死で出した結論は、一週間前に戻ろうということだ。

 手紙を見つける前。
 キジョウと、普通に話せるようになる前。

 どちらも今のココノエにとっては、辛いものとなっていたから。

 一週間前の自分に戻れ、と呪文のように呟いて、ココノエは化粧道具
を引っ張り出した。






「手紙……返しに行こう」

 化粧を終えて身支度を整えたココノエは、玄関の前に佇みながらそう
呟いた。

 昨晩開いた手紙を見て、ココノエは本当にこの手紙が自分以外に宛て
られたものだと自覚した。
 この手紙の主は、自分以外の誰かに、真っ直ぐに想いを伝えたのだ。

 ――手紙はもう、ココノエに何も与えない。

 玄関の扉に耳を押し付け、ココノエは周りの音に耳を澄ませた。

「……て、何やってるんだ私……」

 キジョウを避けたいのだと分かっていても、ココノエはそれを認めた
くなかった。

(そもそも、避ける理由なんてないし……)

 昨日の、女性とキジョウの姿が頭に浮かんで、ココノエは再び苦しく
なった。

「関係、ないもん」

 言い聞かせるようにそう呟き、ココノエは扉を開け、外に足を踏み出
した。



 そしてしんしんと雪が舞い落ちる中、ココノエは無言で歩く。
 積もるわけではない雪だが、人通りを減少させる効果はあったのか、
午後だというのに、歩いているのはココノエだけだった。

 住宅の塀には雪が積もり、木々の枝にも雪化粧。
 だが、足元の道は濡れていくだけで、うっすらとも雪で飾られること
はない。

 それがまるで自分のようで、ココノエは嫌だった。

 綺麗な周囲の光景。変わることのない自分の歩く道。
 手紙の主と相手、キジョウと昨晩見た女性。対するココノエ。
 悲観的過ぎると思っても、今は全てを昨日のことに結び付けてしまう。

 重くなる足取りで、普段の倍近く時間がたった頃、ココノエは公園の
脇の道にたどり着いた。



 最初に手紙を見つけた朝のように、濡れた木の枝。

「え……」

 そこには、朱色の紙が、くくり付けられていた。


 ポケットに忍び込ませた白い紙ではなく、朱色の和紙。
 不吉なものを感じながら、ココノエはそれをそっと枝から外した。

「何で……」

 ココノエは手紙を全て返そうと思って此処に来たのに、そこには既に
新しい手紙があった。

(――……嫌だ)

 見たくなかった。
 もう、この手紙の主が他の人物に宛てた手紙なんて、読みたくなった。

 この手紙の主が、他の誰かに告げる想いなんて、見たくない。


 ココノエはそう、強く思い、朱色の手紙を枝に戻した。
 他の手紙も、全て枝にくくり付ける。
 ココノエのように、手紙の主が願うのとは違う人物が見つけないよう
に、葉の陰になるよう、場所を選んだ。

 ココノエは、しばらくぼうっと、その枝を見つめていた。

(……や)


 何故か、ココノエには深い喪失感があった。


(そんなの、おかしい)

 手紙は、元々ココノエの手に渡るべきではなった。
 不当に盗んでしまった手紙を元に戻しただけだ。

 でもココノエは、苦しかった。

 苦しくて、悲しい。

 震える手で、ココノエは無意識に枝に手を伸ばした。

 自分で手放した手紙に、手を触れる。
 見たくない。でも。

 ……ココノエは、それでも『手紙の主』との繋がりを失いたくなかっ
たのだ。
 この思いが何処から来るのか、ココノエは知らない。

 ただ、キジョウのことを考えることもできず、手紙のことを考える事
も止めるなんて、ココノエには出来そうになかった。

 だから。


 ココノエは、朱色の手紙を開けた。






本当はこの想いが伝わっていないと
分かっていても

言いたかった。






貴女のおかげで救われた。
本当に想いを伝えられたのだと
思うことが出来た。

見知らぬ貴女に、最後に、礼が言いたい。




 手紙は初めて、複数枚となった。
 ココノエは、無心で一枚目をめくる。






この想いを消してくれて、有難う。






「…………」

 何度も、何度も、その手紙をココノエは読み返した。
 どういうことか、すぐに頭は理解してくれなかったからだ。

 いつになく、長い手紙。

 『見知らぬ貴女に』

 その一節、そして文の端々から、手紙の主は、ココノエという第三者
に読まれていることを知っていたのだ。

 知っていて、それでも手紙を書き続けた。

「なん、で……」

 その理由は、それこそココノエには理解できない。

 でも、それでもなお、手紙の主は言いたかったのだ。
 今では伝えることの出来ない誰かに、自分の想いを。


 ココノエの冷えた頬を、熱い一筋が流れる。


 本当の想い人でなくても、良いと。
 全く関係のないココノエでも良かったのだと、手紙の主は告げる。 

 ココノエであっても、それで良い。
 『救われた』、想いを消化することが出来たのだと。


 涙は、止め処なくココノエの頬を濡らす。
 零れた先から氷のように冷たくなっても、涙はココノエの頬を冷やし
はしなかった。


 熱い。


(分かんない、分かんない、分かんない、分かんない……っ!!)

 手紙を読む前より、ずっと苦しい。


 いいじゃないか。
 手紙は、ある種ココノエに向けて書かれたものだったのだ。

 ココノエは手紙を盗んだのでもなく、手紙の主の“希望”を砕く行為
をしたわけでもなかった。

 それなのに、手紙を読む前よりもずっと深い悲しみが、ココノエの中
に降り積もっていく。


 それは、この一言。

「『最後に』……」

 最後。

 手紙は、そう告げた。
 これが最後だと、二度と、ココノエが枝に結ばれた手紙を見ることは
ないのだと。

 これが、ココノエと手紙の主を繋ぐ最後だと、言っている。


 ココノエは、声もなく、泣いた。


 今度は意識して、ココノエは泣いた。

 ココノエに触れるそばから水に還っていく雪の冷たさも、木々にあた
る雪や雨の音も、何も聞かずに、泣いた。













「ココノエ!」

 どのくらい経った時か、辺りに低い声が響いた。

 聞き覚えがある。
 ココノエはそうとだけ認識して、振り向きもせずに泣き続けた。


 エンジンの音。
 扉の閉まる音。

 足音。
 水の音。


 色々な音が混ざった後、ココノエの視界に陰が出来た。

 誰かが無理矢理、ココノエの向きを変えた。

「何してるんだ!?」

 向けられた先に映ったのは、長身の男性だった。

 ぼやけた視界の片隅に、見知った顔が映る。


「キジョウ、さん」


 キジョウが、今までに見たことのないほど眉を顰めて、ココノエを
見つめていた。

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、ココノエはにへらと笑った。

 キジョウはおおっぴらに眉を顰めなおし、そして大きなため息をつい
た。

「乗れ」

 短くそう言い、キジョウはほぼ強制的にココノエを自分の車に押し込
んだ。

 ココノエは、状況も掴もうとしないまま、ただ無言で俯いていた。
 ココノエの知らない間にマンションに着き、車を降りてエレベーター
に乗り、気がつけば暖かい部屋に居た。


「座ってろ」

 さっきから単語系だなあと、ココノエはそんなところだけ気がついた。
 涙は今は止まり、頬がひりひりと痛む。

 濡れた上着を脱ぎ、革のソファに腰かけ、そしてコーヒーが目の前に
差し出された。

「……どうした」

 その一言に目を上げれば、キジョウが窓際に身体を預けながら、黙って
ココノエを見ていた。
 表情は、何処までも不機嫌そうだ。

「どうしたって……」

 どうしたか? そんなこと、ココノエにだって分からない。
 ココノエは再び、俯いた。

 キジョウは決して無理に聞き出そうとはしていない。
 その態度が、余計に悲しい。

 でも同時に、そんなのおかしい、そう思った。

 ただの隣人なんだから、放っておいて欲しい。
 今まで通り、ただ隣に住んでる人間として、接して欲しい。

 そんな優しさ、今のココノエはいらない。
 特に、キジョウからは、ただの優しさなんて、与えられたくなかった。

 それが例え、ココノエの我侭で、自分勝手だとしても。


「……悲しくて」


 嘘ではないが、それがそのまま真実というわけでもない。
 ココノエは答えた。

「泣いているのだから悲しいのは当然だろう。それが、嬉し泣きでない
限りはな」

 しかし、キジョウは冷静に、重ねてココノエに尋ねてきた。

 ココノエは、その言葉に苛立った。
 何でそんなこと、キジョウに言われなければならないのか。

 ムッとして俯いていた状態から再び顔を上げると、キジョウは常より
も無表情で、ココノエを見ていた。

 放っておいて欲しいと思っていたのに、いや思っているのに、そんな
目で見られるのは嫌だと、ココノエは思った。

(自分勝手だ……)

 自分で自分の気分が、サッパリ分からない。
 何がしたいのか。
 何を思っているのか。

 そうして、こんなに気持ちが矛盾するのか。

 考えて、やがて答えは勝手に口をついて出た。



「好きだったんです」



 スキ。

 ココノエの耳に、その一言がやけに響いて伝わった。
 一番言った自分が驚き、そして、飲み込んだ。

(ああ……そっか)

 染み渡る、その言葉。
 そうだ。

 ココノエは、この気持ちは恋愛感情じゃないと思っていた。
 何故ならそれは、キジョウと、手紙の主に対する気持ちが同じだった
からだ。

 ココノエは、見ず知らずの相手を好きになれるほど、情熱的な人間で
はなかった。特に手紙などというのは、相互に行う伝達ではなく、相手
からの一方的な連絡でしかない。
 手紙の主への気持ちが恋愛感情でないのなら、ほぼ全く同じ感情の、
キジョウへの気持ちも恋愛ではない。

 だから、ココノエは、この感情を恋情だとは思わなかったのだ。


 でも。

 手紙の主が、誰かに「好きだ」と言ったとき。
 キジョウが、見知らぬ女性と深夜に会っていたとき。

 同じくらい、ココノエはショックだった。
 どちらを考えても同じくらい、辛かった。

「好き……?」

 キジョウが、眉を顰めて尋ねてくる。
 その表情は、険しい。

 ココノエは、今度は俯くことなく、キジョウを見つめ返した。
 暫し視線を通わせた後、言いづらそうに、ココノエは口を開けた。

 考えるまでもなく、言いたいことは決まっていた。

 キジョウに自分の気持ちを直接伝えることは出来ないが、手紙の話に
乗じて、想いを言うことだけは出来る。

「……手紙を見つけたんです。誰かが、とても大切な人に送る手紙」

 ぽつぽつと、ココノエは手紙の主に対する気持ちを話し始める。

「いけないって分かってても、何度もその手紙を手にしてしまって」

 きゅっと、ココノエは手を握り締めた。

「全部あわせても、きっと便せん一枚にも満たない短い手紙なのに、私
にはとっても大切な物に思えたんです」

 ココノエの生活を変えた、短い手紙。

「でも――……もう、届きません」
「届かない?」

 熱くなる目頭を軽く押さえて、ココノエはぼそぼそと続けた。

「『最後』だって、言われたんです。もう、その手紙を見ることはない
んです」

 キジョウは、さも分からないと言うように、首を振る。

「それが、悲しいのか? そんな手紙、君の日常のごく僅かしか占めは
しないのに?」

 ココノエは、客観的に見た、冷静な意見を言われてむきになっていた
のかもしれない。

「だって、好きだったんです――……っ」

 止めたはずの涙が、目じりを伝って頬に流れる。
 それを見て、キジョウがぎょっとしたかのように目を見開いた。

「その人と、まだ繋がっていたかったんですよ! キジョウさんにとっ
てはどうでもいいことでしょうけど、私には……!」

 大きく、ココノエは熱のこもった息を吐いた。

「その手紙の先に、人が見えたんです……。
その人のことが、――私、好きだったんですよ……」

 何故そんな感情を抱いたのかは、分からない。

 たった、六通の短い手紙。
 相手の性別も分からない状況で、それでもココノエは手紙の主に好意
を抱いたのだ。
 それが、たとえ擬似恋愛であることを否定できなくても、ココノエに
とってその執着は、十分恋と呼ぶに値した。

「好きだと、本当に言えるのか?」

 冷たい、声がココノエに降る。

「――……」


 ココノエと、キジョウの視線が絡んだ。
 キジョウの表情は、ココノエが始めて見る、形容しがたいものだった。

 しかしココノエは、言葉の端から馬鹿にしているような、そんな彼の
感情を感じ取った。

 ココノエに注がれる視線は、揺ぎ無い。


「見たこともない、何の感情も得られない手紙の差出人に、そんな感情
を抱いたのだと、本当にそう思えるのか?」

 キジョウ鋭い視線は、ココノエの心を刺す。



「俺には――……気の迷いとしか思えないがな」



 まるでこれ以上馬鹿な話を聞きたくないかと言うように、キジョウは
ココノエから顔を背けた。

 顔を顰めてもなお整った表情は、ココノエに冷たさしか与えない。
 ココノエはもう、室内の暖かさを感じなかった。









ずっと君を待っていた。


直接伝えることの苦しみも
打破出来ないような自分と
君とを比べ躊躇しても。


どうしても希望に縋りつき
微かでも君に伝わる可能性を
捨てることが出来ない。


そうして愚かにも吐露する想いが
君に消えていく事実に歓喜する。


好きだ。


本当はこの想いが伝わっていないと
分かっていても

言いたかった。



貴女のおかげで救われた。
本当に想いを伝えられたのだと
思うことが出来た。

見知らぬ貴女に、最後に、礼が言いたい。


想いを消してくれて、有難う。


 


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