○ 冬と雪と想いの ○







Thursday


 やはりこの手紙は持っているべきじゃないと、ココノエは今朝は避け
ずに公園横へと向かった。

 こんなにも差出人は相手を想ってるのに、邪魔なんて出来ない。

 そう決心して自転車をこぎ、あの枝の手前まで辿り着いた時ココノエ
は目を見開いた。

「次の……手紙」

 空いているはずの枝には、既に白い手紙が結ばれていた。
 いつ、と思う暇もなく、ココノエは初めて気付いた。

(これって、実際に誰かが書いて、結んでるんだよね)

 当たり前だが、ココノエが手紙を持ち帰ったために、手紙の差出人は
本来の相手が手紙を持って行ったと思い、続きを書いたのだろう。

(どうしよう……)

 改めて、自分がしてしまったことに後悔の念を覚える。
 手紙を戻そうと、そう思ってた。

(でも――)

 もし差出人が、それを相手に拒否されたと思ってしまったら?
 自分が一度書いた、『すみません』の手紙。
 あれも、差出人が勇気を出して『拒否しないで聞いて欲しい』という
意味で一緒に結んであったとしたら?

(――手紙を書いた人を、がっかりさせたく、ない。
 こんなに想ってるのに、上手くいくかもしれないのに)

 ココノエは、結ぼうと思って取り出した手紙を再びポケットに戻した。

 八方塞だった。
 返すことでも相手を傷つけ、取ってしまうことも望みを摘み取るようで。

(それなら)

 後からでもまだ大丈夫。そう思い込もうと、ココノエは枝に手を伸ば
した。

 でも本当は、ただ自分が当事者になりたかっただけなのかもしれない。
 ここまで想ってくれる誰かがいて、羨ましいだけなのかもしれない。
 だから言い訳を作って、自分の我侭を正当化しているだけなのかも。

 ココノエは考えないようにしながら、手紙を鞄にしまった。



 * * *



 そんなに煩悶と駅まで行ったのに、そこにはここ数日でやけに見かけ
る隣室の住人。
 原因はココノエが早く出ているからなので、キジョウの方こそ『また
か』と思っている可能性が高い。

 ココノエは努めて冷静を装い、すっかり定位置化した場所に並ぶ。

「おはよう、ございます」

 軽くキジョウの視線を感じたが、気にしていないかのように前を見つ
め続けた。

「おはようございます」

 本当にいつもと変わらず、キジョウから返答がある。
 そのあまりにも平坦な声に、ココノエは何故か目頭が熱くなった。

 冷たい声が、逆にココノエを落ち着ける。

 その様子を知って知らずか、ココノエの隣から続いて声が聞こえた。

「どうぞ」
「?」

 いぶかしんで顔を向けると、珍しく目が合い、慌てて視線を落とした。
 その落とした視線の先には、キジョウの右手。
 よくコンビニ等で見かけるミントタブレットが、ココノエに向かって
差し出されていた。
 ピンク色のパッケージが、冷たい美貌と限りなくミスマッチ。

「私は食べませんので」
「あ……はい」

 唖然としながらココノエは受け取る。

(何で持ってるんだろう? 試供品……じゃないみたいだし)

 そう思うと、笑いがこみ上げてくる。

「……」

 横目で睨まれた。
 慌てて、ココノエは頭を下げる。

「どうもありがとうございます! これ、好きなんです」

 ココノエの主観的にはえへ、と。客観的にはでへ、とココノエは笑う。

「一昨日――……」

 それを見て、一瞬キジョウは何か言い出そうとしたが、結局再び口を
閉ざした。

 そのまま、時間通りやってきた電車に乗る。

 キジョウはいつもココノエを先に行かせてくれるので、その日も同様
にココノエは先に電車に入った。

(何で混み具合って日々違うんだろう……)

 今日は車両が接続されているため、普段最後部になる車両が二人の前
に止まった。

 げんなりとしながら、ココノエは一番空いている角の部分へと進む。

 本当に自然に、キジョウがココノエの後ろに並んだ。
 ココノエは少し緊張したが、キジョウは全く平常通り本を読み始める。

(……一人相撲みたい)

 自分でも分からないままに少し拗ねて、ココノエも本を取り出した。


 そうしてしばらく経ち、人の出入りが積み重なって車両の中が高密度
になったとき、大きく電車が揺れた。
 ココノエの目の前を、腕がよぎる。

(あ)

 見れば、キジョウの腕がココノエの前を通り、電車の壁に手を着いて
いる。ココノエは、全く他者の圧力を感じることなく、キジョウの腕と
壁の間に挟まれていた。

(うわ……)

 そんなのよくあることで、緊張する必要もないのに、ココノエは顔が
熱くなるのを感じながら、こっそりと視線を上げた。
 ココノエよりキジョウは背が高いため、隠れて見上げるのは中々辛い
が、思ったより近くにある顔に心臓が高鳴る。

(まつげ長っ、肌綺麗!)

 ちらりと見るつもりだったココノエだが、いつのまにかしっかり凝視
していたらしく、鑑賞していた切れ長の目に収まった色素の薄い瞳が、
ココノエの目を捕らえた。

 そらすことも出来ず、かといって見つめることも出来ず、ココノエは
照れ笑いを浮かべた。
 キジョウは少しだけ目を細めて、視線を本に戻した。
 ココノエも、慌てて視線を手元に戻す。もう本を読んでいる気分じゃ
なかったので、ココノエは本を閉じ、目をそっと伏せる。

(よく分かんない)

 鞄の中にある二枚の手紙の存在はとても重いのに、今はそれを気にさ
せないほどにココノエの心は浮き足立っている。
 その理由がココノエには分からなかった。

 ごちゃごちゃした頭をまとめられずに、ココノエは目を開けた。

「……」

 ちらりと視線を上げたココノエが見たのは、顔を軽く顰めたキジョウ
の顔。少し前のココノエなら、その微妙な表情の変化に気付かなかった
かもしれないが、少しだけ彼に慣れた今なら分かる。
 何故だろうと思った。

(あ!)

 キジョウのすぐ横にいる女性を見て、ココノエは顔を顰めた。

(ちょっと近づき過ぎだから!! 明らかにあなたの横にスペースある
じゃない!)

 不自然にキジョウに寄る女性を見て、ココノエは気分が悪くなった。
 胃がムカムカする。
 思わずココノエが睨んでいたら、視界の上部にあったキジョウの腕が
少し下がった。

 その動作にハッとして、ココノエは顔を左右に振って息を吐いた。

(何を考えてたんだろう、私)

 少しだけ冷静になって視線を上げると、複雑な表情をしたキジョウと
目が合った。
 ココノエは反射的に、すぐ目を逸らした。

 そのままココノエは、キジョウが「お先に」と言って電車を降りるま
で俯いたままだった。



 * * *



 帰りが遅くなった。
 午前様ではないが、ココノエは日付が変わってからの帰宅となった。
 疲労で足取りが覚束ないまま、いつもの道を歩く。
 各店は閉店時間をむかえ、街灯だけが照らす長い道をただ単純に家に
向かって足を進める。

 家々が途切れ、公園の柵が近づいたところで、ココノエは苦い思いと
ともに顔を上げた。

「!」

 白い、手紙。
 それが、見えた。

 鞄に入った未読の手紙。
 その続きが、既に作られ結ばれている。

 日毎に増す罪悪感に怯えるココノエとは別に、この手紙の主は、微か
な期待と切なさのもとに手紙を書き続けているんだろう。

(初めに、好奇心なんて出さなきゃ良かった)

 本心から、ココノエは今そう思った。
 突き放せれば、面白がれれば、苦しくないのに。

 手紙の主に感情移入をしてしまったせいで、ココノエにとってその主
は、誰より色鮮やかな存在になってしまった。

 瞬間、誰かの映像が思い浮かぶも、ココノエの心中はすぐに、頭上に
結ばれた手紙で塗り替えられる。


(――でも)


 勝手に枝に伸ばす腕を見ながら、ココノエは自分の、矮小で身勝手な
願いに気がついた。

(この手紙の宛先は)

 ……本当はココノエは、この手紙の受け取り人になりたかったのだ。
 この想いの先にいるのは、自分でありたかったのだ。

 ココノエが出した、手帳を裂いただけの小さな手紙。それが拒否され
なかったことで、小さな望みを抱いてしまったのかもしれない。

 もしかしたらこの手紙の主はココノエが読んだことを知っていて、そ
れでも書き続けている――ココノエに対して出しているのだと、思いた
かったのかもしれない。

(だって……そう)

 可能性は、決してゼロではないからだ。
 だからココノエは、普段なら絶対行わないのに手紙を持ち続けている。

 手紙を解いたココノエは、それを手の中にしっかりと収め、鞄に入っ
ている未読の手紙を取り出した。

 そうして、先に受け取った手紙を開く。



 どうしても希望に縋りつき
 微かでも君に伝わる可能性を
 捨てることが出来ない。



「伝わる可能性……この手紙のこと?」

 不確実な方法だと分かっていて、それでもこの人はこの方法に頼るし
かないのだろうか。

 ココノエは、今回くくり付けられていた手紙を開いた。



 今は唯
 愚かにも吐露するこの想いが
 君に消えていく
 その現実のみが歓喜を呼ぶ。



 開いて、そしてすぐに閉じたまま、ココノエは疲れていることも忘れ
て足を速めた。
 振り返ることもなく、その場を離れる。

(違う!!)

 段々と小走りになりながら、ココノエは心中で叫んだ。

(違うんです……!)

 あなたの中から引き出される想いは、あなたの想い人に伝わってるん
じゃないのだと、ココノエは叫んだ。

 ココノエがこの差出人の想い人である可能性は、冷静に考えてとても
低い。

(想われたくて。こんな風に誰かに必要とされたくて、手紙を奪ってし
まったことが、こんなことになるなんて)

 返事がなくとも自分の想いは伝わっているのだと、ささやかな喜びを
この差出人は味わっているのだろう。

 そう思うと、自分の罪深さが冬の寒さ以上にココノエの身を切った。


 隠れるように、マンションの扉を開けて駆け込み、階段を駆けあがる。
 息が切れても、肺が酸素を求めても、ココノエは気にしなかった。

 その最悪のタイミングで、階段から自分の居住階に出たココノエは、
歩いていた人物にぶつかった。

「ひゃっ!」

 しっかりと肩を掴まれ、ココノエは反動で後ろに倒れることは回避し
た。
 とことん情けないと思いながら、視線を上げようと息を整えた。

「危ないな、君は」
「え……」

 キジョウだった。

 最近ようやく耳に馴染んできた、低い声が脳を軽く痺れさせる。

(よりによって!)

 そう恥ずかしく思いつつ、でもそれ以上に安堵した。
 肩を掴むキジョウの手が、温かい。

「キジョウさん……」

 詰めていた息が、自然と解かれる。
 情けない気持ちと温かい気持ちが混ざって、ココノエはにへらと相好
を崩した。

「おかえりなさい」

 この状況下でそう言うか、とか、今のココノエはそこまで気を回せな
かった。

 それを見て、キジョウは軽く目を細め、小さくため息をつく。

「大丈夫ですか」
「はい。どうもありがとうございます。キジョウさんのおかげで、全然
怪我なしです」

 熱に浮かされたように、ぼやっとしたままココノエは答えた。
 するとキジョウは、掴んでいた手を離し、今度は先ほどよりも大きく
ため息をついた。
 居た堪れずに先にココノエは歩き出したが、すぐにキジョウに追いつ
かれた。
 そのスピードは落ち込んだココノエが基準なので、とても緩やかだ。

「……もう一度聞きます。“大丈夫”ですか」

 先ほどココノエは文字通りに受け取ったが、キジョウが聞きたいのは
そうではないらしい。
 キジョウは『近寄るな』という雰囲気をかもし出しているため、正直、
ココノエにとってこの質問は意外だった。

 何言ってるんですかと、ココノエは笑い飛ばそうと思った。

「私、最低なんです」

 出来なかった。
 妙に落ち着いたキジョウの雰囲気は、冷たさよりも安堵をココノエに
与え、無防備に心を晒してしまった。

「いや、その、何でもなくて」

 ココノエもすぐにマズイ事を言ったことに気付き、訂正する。
 もう、部屋の前だ。

「そうだ! キジョウさん、これ、今朝のお礼です」

 話を変える為に、ココノエは鞄から取り出したガムを差し出した。
 今はキジョウの鋭い視線から逃れようと、ココノエは下を向いたまま
ぐっと手を突き出す。

 無言で、キジョウがその手の上から取ったのを見て、すぐにココノエ
は部屋の鍵を開け、取り繕った笑顔で挨拶した。

「ではキジョウさん、おやすみなさ――」

 部屋の中に消えようとしたココノエの手が、強い力で引っ張られる。

「わ――」
「ココノエさん」

 耳元で、低い声が響く。
 背中が、支えられるようにキジョウの身体にぶつかった。

「少なくとも、このような気遣いが出来る方は、最低ではないと思いま
すが」

 どくんと、一際高く鼓動が跳ねる。

「お、おやすみなさいっ」

 手は既に放されていたので、ココノエはそのままキジョウの顔を見ず
に部屋の中に入っていった。

 ばたんと扉を閉め、そのまま玄関でココノエはへたり込んだ。
 扉の向こうから、「おやすみ」という声が聞こえてきた。

「な、な、な、な……っ」

 すっかり冷え込んだ部屋の中、ただ顔だけは熱を帯びて熱いくらいだ。
 ココノエは自分の顔を両手で覆い、さきほど起きたことを反芻しては
奇声を発して身悶えていた。
 隣に聞こえるかもしれないと、奇行は止めたが、壁を挟んですぐ隣に
相手がいるかもしれないと思うと、ココノエの混乱は復活した。

(キジョウさんの行動って、ぜんっぜん分かんない……!)

 いまだ静まらない顔の赤みを意識しながら、ココノエは声を抑えて、
疲れ果てるまで暴れ続けた。




 


Friday


 色々あった一週間も、今日で終わりだ。

 ココノエは生涯で最深のため息を吐いた。
 あの、不思議な手紙。それがココノエの心を苦しませる。

 苦しいのなら手放せばいいのだが、ココノエはあの手紙が好きだった。
 何度も読み返しては、書いた人のことを思い、切なくなる。

 だから、どうしても手放せなかったのだ。

 自転車をこぎ、それでも何かを期待していつもの道を通る。

(昨晩あったんだから、今朝はないはず)

 分かっていても。
 そして二度と読んじゃいけない、返さないといけないと思っていても、
あの手紙を手にしたいという衝動を、ココノエはどうしても止められな
かった。

「――あった……」

 いつもより冷え込む朝、その手紙は何も変わることがないとでも言う
ように、枝に結ばれていた。

 どうしよう。
 その思いがココノエの中を占拠する。

 それでも、ココノエは枝に手を伸ばした。

(これで、最後にしよう)

 何度使ったとも知れないその言葉を言い訳に、手紙はココノエの手の
中に落ちた。
 でも開くことが出来ずに、ココノエは鞄にしまって駅まで急ぐ。
 鞄に降り積もった四枚の手紙が、ココノエにとっては何より重かった。



 * * *



 朝も夜もキジョウに会うことなく、ココノエは家に戻ってきた。
 そのせいかは分からないが、一日中頭は鞄の中の手紙のことで一杯で、
友人に「ついに脳みそ大破?」とため息をつかれてしまった。

「ため息つきたいのは、こっちですよー」

 深いため息をつきつつ、ココノエは布団の上に横になった。
 ごろりと横向きになってから、ぼうっと遠くにおいてある鞄を見る。
 今や四枚になった手紙は、ココノエに重くのしかかる。

 反対側を向き、耳を澄ます。

「キジョウさん、まだ帰ってきてないのかな?」

 そこまで呟いて、すぐに口を押さえた。

(な、何考えてんの私!)

 自分の発言に、ココノエは一番驚いた。

(何故キジョウさん!?)

 あわあわと、左右にごろごろ転がり、壁に頭を打ってから止まった。

「いつぅ……っ。馬鹿だ私」

 さらにココノエは落ち込んだ。

「今日は金曜、平日最後の日。そりゃあキジョウさんくらい美形なら、
飲み会の引く手も数多だっての」

 自分で言った一言が、何故かココノエの胸を深く抉る。
 手紙と同じか、それ以上に、胸が苦しい。

「それか彼女とデートとかお泊りとか」

(嫌だ)

 思って、そんな自分にショックを受けた。

「え? 何で? 何で嫌!?」

 訳が分からないと自分の考えに飛び起き、部屋の中をぐるぐると回り
だした。

 キジョウは、それは確かに美形だが、ココノエは彼が苦手だったはず
なのだ。
 いくら美形でも、冷たい人間は好きじゃない。

 最初に会ったとき、キジョウはココノエを見下したのだ。
 ココノエは緊張していながらも精一杯笑顔を浮かべて挨拶したのに、
キジョウは一目見るなり顔を顰めたのだ。
 だからココノエは、キジョウを見て「理想像!」と叫ぶ友に、「知ら
ないって幸せだよね」と返したのだ。

(あれ? でも、キジョウさんてそういう人だっけ……)

 挨拶すれば、とても分かりづらいけれど、会釈を返してくれる。
 電車でココノエが潰されないように気を遣ってくれた。
 落ち込んでいるココノエに、大丈夫かと聞いてくれた。

 細かいことなら、他にももっとある。
 どれも、しなくてもキジョウには問題のないことだ。

 冷たい見た目に反して、キジョウは優しかった。

(じゃあ私、あのとき何かした?)

 ココノエに思い当たる節はない。
 服装も変じゃなかったはずだし、失礼な事を言うほど会話もしてない。
 というか一目でしかめっ面では、会話の隙もない。
 ご挨拶の品は……まだ渡してなかった。

 全く分からない。

「でもあの表情、最近どこかで見たんだけど――あ」

 電車の中だと、ココノエは思い当たる。
 混んでる電車で、必要以上に女性に寄り添われてたときの、あの表情。
 あのときの表情をもっと分かりやすくしたのが、最初の頃のキジョウ
だと、ココノエは納得した。

(でも何で……)

 一つだけ、理由があるとしたら。

「もしかしなくても、キジョウさんて、女嫌い?」

 ココノエの顔が相当見るに耐えない場合を除き、その可能性は高い。
 電車でほぼ寄りかかっていた女性は、ココノエから見ても甘い感じの
可愛い女性だったからだ。

「――やだ」

 ぐっと、胸に圧力が加わった。苦しい。
 でもそれ以上に、何かが辛い。

 キジョウが女嫌いだろうが、人間嫌いだろうが、ココノエには関係な
い。さすがにココノエが嫌われている場合は、微妙に関係あるのだろう
が、今のところ隣人として問題はない。

 それでも、ココノエは何かが無性に嫌だった。
 今の自分の考えを、心の底から認めたくないと思っている。

「だ、だああっ! 止め! キジョウさんのことはいいの!」

 考えるべきは手紙のことだと、再び布団に倒れこんだ。
 手紙にどう対処すべきか。それが問題なのだと、ココノエは無理矢理
頭からキジョウのことを追い払った。



 金曜の夜に遊びもせず、飲みもせず、二時間ほど悩みぬいたココノエ
は、意を決して鞄を取りに行った。

 一枚目は確かこうだ、と自分で適当な紙を選び、ココノエをここまで
この件に引き入れた一文を書く。


 ずっと君を待っていた。


 二枚目。ひらりと一枚目の横に置く。
 

 直接伝えることの苦しみも
 打破出来ないような自分と
 君とを比べ躊躇しても。


 三枚目。昨夜の困窮が蘇り、胸を締め付ける。


 どうしても希望に縋りつき
 微かでも君に伝わる可能性を
 捨てることが出来ない。


 四枚目。罪の意識は、強くココノエを苦しめる。


 今は唯
 愚かにも吐露するこの想いが
 君に消えていく
 その現実のみが歓喜を呼ぶ。


 ……そして、そのまま、今朝見つけた一枚を置いた。





  好きだ。





「……え……」

 たった一言書かれた、その手紙。

 見た瞬間、これだけは見たくなかった、そうココノエは思った。
 音もなく、ココノエの頬を熱いものが伝う。

「え? え?」

 ココノエは自分でも訳が分からず、頬を伝う涙を拭う。
 それでも、涙は止め処なくあふれて来る。

 ココノエには自分が泣いている訳が分からなかった。

 これが、差出人が、誰か強く思う人に宛てた手紙だというのは分かっ
ていたはずだ。

 ずっと待っていて。直接は言えないけど、こんな確率の低い方法にも
縋るほど、この人は相手を想っていて……そして、伝えた。

 それの、何処が悲しいのだろう。

「ぅ……」

 声がもれた。

 苦しい。辛い。
 手紙のことも、キジョウのことも、どちらを考えても苦しい。

 その理由が分からないから、余計に苦しかった。

 だからせめて目に集まる熱をどうにかしようと、ベランダに出る。
 部屋とは段違いの寒さが、ベランダに出た瞬間に襲ってきた。
 風が耳も手も、冷えやしていく。

「……っ」

 唇をかんで、声が出ないように抑えていると、マンションの下に車が
止まった。
 気をそらせようと、観察する。

 よく見えないけれど、白いタクシーだ。
 
 中から出てきたのは、ココノエが今一番見たくない人物。

(キジョウさん)

 いつもより整えられた髪形に、落ち着いたスーツを着ていて、普通の
感覚の女性なら、間違いなくカッコいいと思うのだろう。

 同様に感じる自分が、ココノエは何だか悔しかった。

 目をそらせようとしたココノエの視界の端に、タクシーから伸びる手
が見えた。

(え?)

 キジョウの腕を掴んで顔をのぞかせたのは、綺麗に巻かれた黒髪を持つ、
綺麗な女性だった。

 怖いくらい、キジョウにはお似合いだ。
 
 ……少なくとも、ココノエよりかはずっと相応しい。そう思った。

 ココノエはそこで、自分の部屋に戻った。

「ふ……く……っ、ぅ……っ」

 もうココノエの涙は止まらなかった。
 布団に包まり、声を殺してひたすら溢れる涙に身を任せた。

 手紙のことも、キジョウのことも、ココノエには分からなかった。
 何でこんなに辛いのかも、悲しいのかも。

 恋愛じゃないと思う。

 だから、理由が分からない。
 ただ苦しい。


 次の日が休みでよかったと、漠然と思いつつ、ココノエの夜は過ぎた。



 


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