○ 冬と雪と想いの ○







Saturday


 気の迷いだ、そう言われた。
 それが、手紙の主への気持ちを言っているのだろうと分かってはいた
が、ココノエには『キジョウへの気持ち』を言っているように聞こえた。

 ココノエの、キジョウに抱く淡い想いは、気の迷いなのだと。


「――ぃ」


 考えることなく、ココノエの口から声が漏れる。

「……何だ?」

 キジョウが、視線だけココノエに戻し、彼女に声をかけた。

「――ない」

 再び同じような大きさで、ココノエは呟く。
 キジョウはやはり聞き取れなかったようで、背けていた身体をココノエ
に向けた。


「――ぃって言ってるんです」

 勝手に口が動く。
 そんな感覚で、ココノエは音量を上げた。

「何を――」

 キジョウの声に、ココノエの声が重なる。



「キジョウさんには関係ないって言ってるんです……!」



 息を切らしたように呼吸を荒らげるココノエの前で、キジョウは目を
見開いて彼女を注視していた。

「な、何なんですか、さっきから! 私がどう思ったってキジョウさん
には関係ないじゃないですか!」

 何かが切れたココノエは、堰を切ったように心の内を吐き出した。

「これが本当に好きかなんて、そんなの言えないですっ。
ただそう感じただけなんですもん、はっきりなんて言えるわけないじゃ
ないですか!」

 子どもが喚くように、ココノエはただひたすらキジョウにぶつける。
 もう何がそんなに、ココノエを混乱させるのか、全く分からない。

「なのに……、私の気持ちなんて知らないで……っ」


 もうココノエの激白の焦点は、手紙の主のことよりもキジョウのこと
に遷移していた。


 キジョウがココノエに近づき、肩に手をかける。

「ココノエ」

 それでもココノエは、全く気付かないように言葉を放ち続けた。

「好きだったんです、そう、思ったんです。でも、もうダメで、気持ち
に気付いたときには終わってて……っ!」

 滲む視界で、ココノエはキジョウを見上げた。

「……ココノエ、落ち着け」

 ココノエの両肩に、キジョウの手がかかる。

「だってどうしようもないじゃないですか……!
 その人には凄くお似合いの人がいて、――私なんて……たまたま隣に
越してきただけの知り合い以下で……っ」

 自分が何を言ってしまったのかも気付かず、ココノエは涙と共に激情
を紡ぎだし続けた。

「――ココノエ」

 ココノエの両肩を掴むキジョウの手に、力が入る。
 
 ココノエはキジョウの声も無視し、身体を震わせキジョウの手を振り
払う。

「もう、いいんです、キジョウさんには何の関係もないですから!」
「ココノエ」

 自分を呼ぶキジョウの声から逃れるように、ココノエは彼に背を向け
た。
 そのまま玄関に向かって歩き出す。

「ココノエ、待て」

 キジョウの手がすぐに、歩きだしたココノエの右肩を掴んだ。
 身体が強引に、キジョウに向かって向きを変えさせられる。

「放して、放してください!」

 キジョウの手の力は緩まず、ココノエの歩みは今や完全に止められた
が、それでもココノエは、前に進もうと暴れた。


「ココノエ」

 思いのほか近くでキジョウの声がして、ココノエの身体は反応したよ
うに震えたが、ココノエは無理矢理俯きながら、キジョウから少しでも
離れようと両手を突き出した。

「落ち着け」

 すぐ真横で、キジョウの声が聞こえる。
 ココノエは両手の先に触れた、キジョウの胸を押しながら、半ば叫ぶ
ように言った。

「やだ、帰るん――」


 ココノエの叫びは、途中から途絶えた。

 強い力でキジョウに引き寄せられ、ココノエは彼に倒れこむ。
 反射的に見上げたココノエの顔のすぐ前に、キジョウの顔があった。

 ――それこそ、触れるほど近くに。

「キジョウさ――」
「黙っておけ」

 息がかかるほど間近で彼の声が響いた直後。


「――っ」


 冷たい眼鏡のフレームが、ココノエの頬に触れる。


 キジョウの唇が、ココノエのそれと重なった。
 柔らかな感触が、ココノエを震わせる。

 すぐに唇は離され、呆然とするココノエを見て、キジョウは顔を顰め
たまま眼鏡を乱暴に外した。

 キジョウの手が、ココノエの背にまわされ、片方は顔を支えるように
固定される。
 背に回った手にぐっと力が加わり、ココノエはキジョウに抱きつくよ
うに引き寄せられた。

 何かを言う間もなく、ココノエの唇は再度塞がれる。
 二度目の口付けは深く、思考が奪われた。
 少し唇を離しては、より味わうように何度も深く重ねられる。

 それは心を喰らい尽くされるようで、ココノエは一筋、涙を零した。


 無意識にキジョウの首に腕を回そうとして、ココノエはハッとした。


「や……っ!」

 持てる力全てで、ココノエはキジョウを突き放した。

 後悔するようなキジョウの目を見て、ココノエはもっと苦しくなった。

「何、何するんです、か……っ!」

 唇を手で押さえながら、ココノエは一歩、後ろに下がる。

「わた、私は!」

 もう出尽くしたのか、鼻がツンと痛むだけで、涙は出なかった。

「遊びに付き合えるほど大人じゃないです、そんな風に割り切るなんて
出来ないっ」

「ココノエ……」

 一歩ココノエに踏み出したキジョウと距離を保つように、ココノエは
再度後退した。

「何で……何でこんな……」

 眼鏡のない、キジョウの顔は、いつもより優しそうでココノエは更に
恐くなった。

「変な期待なんて、させないでくださいよ……!!」


 本当に心の限り、ココノエは叫んだ。








 でも。








「――すればいい」



 空気の動く気配と共に、耳元でキジョウの声が響いた。

 暗い。

 視界が暗くなったと思った瞬間、ココノエは、再度キジョウの腕の中
に閉じ込められていた。
 身動きが取れないほどに強く、しっかりと。

「キジョウさ――」

 離れようとしたココノエの動きは、さらに込められた腕の力で、封じ
られた。


(苦しい……)


 男性の力で抱きしめられたココノエには、少々苦しい。
 だがそれは、今のココノエにとって苦ではなかった。

 今だけは、遊ばれているかもしれない可能性を、忘れられる。

 ココノエは目をつぶった。







 そしてどのくらい経った後か、無言だったキジョウから、声が漏れた。


「『ずっと、君を待っていた』」


 憶えのある一節。


「!?」

 そう、それは。

「キジョウ、さん……?」

 抱きしめられたまま、ココノエはキジョウを見上げた。
 不敵でもなく、嫌味でもなく、苦笑でもなく。
 ただ目を細めて、キジョウは微笑んでいる。

 しかし何も言わないまま、ココノエの頭を自分の胸に引き寄せた。

 あの一節は、そこまで独特のセリフというわけではない。
 それでも、ココノエは確かめずにはいられなかった。

「何でキジョウさんが――」

 探るように、ココノエはキジョウの顔を注視した。

「『手紙』の内容を知っている、か?」

 驚きで目を見開き、キジョウの方を見上げようとしたココノエの頭は、
キジョウの胸に強く押しつけられていたため、動かせなかった。

「君と同じような経緯か、それとも」

 後を続けて、ココノエは呟いた。


「『差出人』……」


 無言が、二人の間に降る。
 先に口を開いたのはキジョウだった。

「さて……どちらだと思う」

 ただし、疑問系にて。

 ココノエは、ただ呆然と考えた。
 キジョウは、ココノエと同じ『傍観者』か、それとも『差出人』か。

 そんなこと、ココノエは気に留めたこともなかった。
 いや、考えすら及ばなかった。

 キジョウが、『手紙』を書いた可能性があるなんて。

 聞かれたその一瞬で、混乱しつつもココノエは考えを廻らせた。
 そして出た結果は、一つ。

「『差出人』……ですか……?」

 ココノエがしたのは、ただの消去法だ。

(……キジョウさんがこそこそ枝についた手紙を読むところなんて想像
つかないもん)



「ご名答」

「え」

 ココノエは、それが事実だと思って言ったわけでなかった。
 キジョウに尋ねられたことだって、現実感がなかった。
 だから、キジョウから肯定が返ってくるなんて、思いもつかなかった
のだ。

 半ば愕然と聞いていると、キジョウから息とともに返答があった。

「確率は二分の一だから名推理とは言えないがな」
「はい?」

 喜べたかと思ったら、すぐに落とされた。
 文句を言ってやろうかと思い、ココノエは無理矢理顔を上げた。


(キジョウさん……?)


 キジョウは、ココノエを見ていなかった。
 どこか冷めた表情で、じっと何処かを見ていた。


「――……ファイト」


 何も言えず、思考外の状態から出てきたのは、そんな馬鹿な一言だ。
 ココノエは言った瞬間、床に素手で穴を開けてでも隠れたくなった。

(何言ってんの私! 大人力低すぎだから! 普通は黙って見守るよ!)

 心の底から後悔しつつ、ココノエは可能な限り身を縮めた。


「っふ……っ」


 羞恥でえびの如く蒸しあがって赤くなったココノエの耳に、押し殺し
た笑い声が入ってきた。
 同時に、小刻みに振動が伝わってくる。

 見上げれば、キジョウが片手で顔を覆うように笑いを堪えていた。
 ――正確には、全く耐え切れていなかったが。

「き、キジョウさん……?」

 正直、キジョウを感情の起伏がある人間だとは(失礼にも)思ってい
なかったココノエにとって、この光景は異様だ。

(こ、怖い……)

 やがて少し治まったのか、キジョウは片手をココノエの頭の上に置く
と、撫でるように動かした。

「あ、あの〜……?」

 ココノエは口を挟もうとして、そして止めた。
 キジョウと、目が合ったからだ。

 笑ってるのに、悲しそうだった。
 だから、何も言えなかった。


「あの『手紙』……」


 キジョウが、口を開いた。

「書いたのは、俺だよ」

 キジョウの口から零れた言葉に、ココノエは彼の腕の中で固まった。

「いや、正確には少し違うが……俺という点では同じだな」

(??)

 ココノエに聞かせるように、いや、自分に言うように、キジョウは
言った。

 ココノエの目に、形容しがたい表情のキジョウが映る。
 苦くも微笑んでいる、それが一番しっくりくる表情。


 キジョウは少し腰を曲げ、自分より随分背の低いココノエの肩に、額
を預けた。
 ココノエの肩にしっかりとした重みが加わり、頬を見た目よりずっと
柔らかな髪が撫でる。

(うわ……っ)

 予想外の行動に、ココノエの心臓が悲鳴を上げた。
 キジョウがこんな、まるで甘えているような行動を取るなどとは思わ
なかったのだ。

(髪の毛、ふわふわだなぁ)

 好奇心で、ついココノエはキジョウの頭に手を伸ばした。
 むしろココノエよりも柔らな髪の中に、ココノエの手が沈む。
 思わず勢いに任せて撫でてしまった。

「……」

 頬を温かい風がかすめ、ココノエは反射的にそちらを向いた。

 キジョウが、ココノエを見ていた。

 表情を緩めて、唇と目の流線は弧を描き。
 本当にゆったりと、キジョウは微笑んでいた。

 その表情と距離の近さにココノエは逃げかけ、すぐにキジョウの腕に
阻まれた。
 逃げることは不可能だと悟り、ココノエはせめてもの抵抗で反対方向
に顔をそむけた。


「あの『手紙』は、昔、俺が書いたものなんだ……多少加筆はしてある
が」


 ココノエに頭を預けて下を向いたまま、キジョウは言葉を紡いだ。
 その声音には、何か僅かに笑うものが含まれている。

「当時付き合っていた女の趣味で書かされたものだが、な」

 微かに彼から伝わる振動が、何なのか、ココノエには分からない。

(……だけど、あの『手紙』は誰かが大切な人に宛てたもので、でもそ
の人は想いを消す――というか失恋したわけで……)

 瞬間的に、ココノエは考えをめぐらせる。

(あれ? でもキジョウさんには恋人が……ああ、昔の『手紙』だから
今とは関係ないか)

 そこまで考えて、ココノエは心が急に冷えていくのを感じた。

 キジョウが昔であれ、今であれ、あんな手紙を書いたというのは確か
に、驚いた。

(あんなに強く想う相手がいたというのも、凄くショックだったけど、
でも)

 そうだ。結局、結果は簡単なことだった。
 ココノエの状況は何も変わっていない。


 キジョウには……恋人がいて、『手紙の主』にも、恋人がいた。



(そっか……私の入る隙なんて、今も昔も、全くないんだ……)



 すぐ近くにキジョウの存在を感じても、もうココノエには特別なもの
だと思えなかった。
 遊ぶ相手程度にしか、ココノエはなれないのだと、分かった。

(キジョウさんの隣は、もう他の誰かのものだ)

 ココノエは、力一杯、キジョウの身体を押した。
 頭が冷えた今は、もう……この状態は耐えられなかった。

「ココノエ?」

 キジョウの、疑問符のついた声が耳に入るも、ココノエは離れようと
するのを止めなかった。

「どうしたんだ、ココノエ」

 それでもキジョウの腕は緩まず、ココノエは離れられなかった。
 何度もがこうとも、全くキジョウから距離を置けない。

 一度は出きったはずの涙が、再び落ちた。

「ココノエ……?」

 逃がさないとでもするように、キジョウの腕により力がこもる。

「私、帰ります」

「ココノ――」
「帰りますので、離してもらって良いですか?」

 キジョウの言葉を遮って、ココノエは自分の言を通した。

「キジョウさん、お願いし――」
「断る」

 ココノエの背中の後ろで軽く組まれていた腕が、しっかりとココノエ
を繋ぎとめるように、彼女の身体に回された。

「――何を、考えた?」
「……」

 キジョウの質問に、ココノエは答えなかった。

「――俺、が」

 口を開いたのは、キジョウだ。

「俺が、君の『好き』だった差出人だと知って、幻滅したからか……?」

 低い声で、キジョウが小さく呟くのが、ココノエの耳に響いた。

「違います!」

 反射的に、ココノエは否定した。

「キジョウさんが、『手紙』の差出人だって聞いて、それは驚きました
……でも、それが嫌だったんじゃなくて――」


 イヤ。

 ココノエは自分の言った言葉に驚愕した。

(“嫌”? キジョウさんが差出人だったことじゃなくて……)

 ココノエは、キジョウの隣に立つ未来が……過去すらないことを認識
するのが嫌だった。
 何より、キジョウの隣にいる“誰か”を想像するのが、嫌だ。


「だって……っ」

 キジョウは、言いよどんでいるココノエの反応を待つように、抱きし
める腕に力を込めた。


「キジョウさんには、凄くお似合いの恋人がいるじゃないですか!」

 言いたくないと心の中で叫びながらも、ココノエは言い放つ。

「だから……だから、彼女さんにこれ以上迷惑かけないうちに、私帰り
ます」

 今度こそ、あらん限りの力を込めて、キジョウの胸を押した。

 意外にも、キジョウの腕はすんなりと解け、ココノエは反動で後ろに
倒れそうになった。
 傾いたココノエの左手を、キジョウが掴む。

「あ、ありがとうございます……。わ、私はこれでっ」

 動こうとしたココノエの手は、キジョウに掴まれたままだ。
 振り払おうと手を振っても、キジョウの手から拘束する力は抜けない。

「君は――何を勘違いしてるんだ?」

 キジョウから、そんな声がかかった。
 ココノエは、キジョウこそ何を言うのかと思い、極力見ないようにし
ていた顔を上げる。

 キジョウの顔は、心底意外だというようにきょとんとしていた。

(ちょっと可愛い……じゃなくて)

 自分が怒っていたことすら一瞬忘れて、ココノエはキジョウを見つめ
ていた。

「先ほども気になったが、何の話をしている?」
「何って……」

 ココノエは、言いよどんだ。

「俺には……今、恋人なんていないが」

 口の中でもごもごと呟いているうちに、キジョウが答えを出した。


「ぇ……」


 ココノエは、頭が麻痺したように、口を開けてキジョウを凝視した。

「だ、だって……昨日、夜……」

 単語しかココノエは言えなかったが、キジョウは言いたいことを察し
たのか、しばらく目をつぶった後、口を開いた。

「昨夜なら………………ココノエ」
「……」

 目を開いて、キジョウは真っ直ぐにココノエを見る。

「それは、巻き髪だったか?」
「……はい」

 その女性のことを思い出し、ココノエは俯いた。
 綺麗な、人。
 自分とは全然違う……ココノエは悲しくなった。

(美人で、お似合いの二人だよね……)

 鼻がツンと痛む。




「そいつは、男だ」




 キジョウがげんなりと、はき捨てるように言った。


「………………はい?」


 ココノエは、思わず野太い声で聞き返してしまった。

「飲み会の悪ノリで女装したんだ、そいつ。大学院の後輩だったから、
押し付けられた」

 思い出すのも嫌なのか、キジョウは眉間に皺を寄せて横を向く。

「え、え?」

 ココノエは、今言われたことに混乱し、よく思い出そうと頭を抱えた。

(昨日、アレは確かに女性で……)

 そのときは確信を持っていたつもりだが、よく考えると、ココノエは
ほぼ“彼女”の頭頂部しか見ていない。

(見えたのは――……長い豊かな巻き髪と赤い唇、色白の肌……あれ?
 もしかしなくとも、ほとんど見てなかった……?)

「……思い出したか?」

 キジョウが、薄い笑みを浮かべて、ココノエを見た。
 ココノエは恥ずかしくなって、身を縮めた。

「か、勘違いだったかもしれません……」

 別の意味で逃げ出したくなり、ココノエは身をよじった。

「他には?」
「え……?」
「他に聞きたいことは?」

 キジョウが目を細めてココノエを見てくるのに耐えられず、ココノエ 
は顔を赤くして首を振った。

「な、ないです、大丈夫で――」

 はっきり、『ない』と言いかけて、ココノエは止まった。

 ココノエの気がかりの、一つは解決した。
 でも、もう一つは……。

「言ってみろ」

 促すように、キジョウが少しだけ手に力をこめる。

「――……」

 それを感じて、ココノエは口を少しだけ開いた。


「何で……ですか?」


 少しずつ、ココノエは続けた。


「何で…………キジョウさんは、こんなこと、したんですか……?」


 何故キジョウは、昔書いた手紙を木の枝に結びつけたりしたのか。


「キジョウさんは――」


 ココノエに思いついたのは唯一つ。
 ココノエが、あの手紙に興味を抱いた理由。



「まだ、その人が、好きだからですか…………?」



 切実に、手紙の先にいる相手を想う、差出人の言葉がココノエをここ
まで駆り立てた。
 だから、この手紙を書いたのがキジョウだというのなら、キジョウに
こそ、とても大切に想う相手が居たということだ。

 そして今なお、この手紙を出したということは、その想いは消えてい
なかったということではないのか。
 ココノエは、そう思ったのだ。


「私、……キジョウさんの邪魔、しちゃったんです、か……?」


 聞きたくないことだったが、ココノエは聞かずにはいられなかった。
 彼の邪魔は、したくなかったのに。

 気の遠くなるような気分の中で、ココノエはキジョウの答えを待った。


「ココノエ」


 優しく、低い声が響いた。
 ココノエが不安に思いながら、顔を上げた瞬間。キジョウが強く手を
引いた。

「っ」

 触れ合う直前で、ココノエは止まった。

 キジョウの額が、ココノエの左肩に乗せられた。
 ココノエに負担がかからないように、ごく軽く。
 手が、わずかに触れる程度に、ココノエの背中の後ろで組まれる。

 近づきすぎない距離を保って、キジョウがいる。


「――……約束だけ、残っていたんだ」


 ぼそりと、キジョウが呟いた。
 何気ない様子で呟かれた言葉は、ココノエには分からない。

「…………昔、婚約者がいた」

 些細なことのように呟かれた言葉は、ココノエの感覚を麻痺させるに
は十分な力があった。
 力が抜け、後ずさろうとしたココノエの身体は、キジョウの腕に拒ま
れる。

「結婚前に今あるキャリアを確実なものにしようと、彼女は海外転勤を
引き受けた。一年後に必ず帰ってくると約束を交わして、な」

 さび付いたように動かない首をどうにか少しだけ動かして、ココノエ
は、肩に乗ったキジョウに顔を見やる。

「三ヶ月を過ぎた頃、彼女から連絡があった」

 自嘲的な笑みが、彼の顔に浮かんでいた。


「『なかったことにしてほしい』とだけ、告げられたよ」


 それを聞いた瞬間、ココノエの頭に瞬時に血が上った。
 ココノエは基本的な面ではリアリストだが、恋愛に関しては少しだけ
ロマンチストだった。

「そんな!!」

 だから、キジョウが冷静に話しているにも関わらず、ココノエは声を
上げてしまった。

「何ですかそれは!!」

 全く事情を聞くことなく、ココノエは憤慨していた。
 まだまだ恋愛には夢を見ていたい、ココノエだった。

「ココノエ、落ち着け」
「だって!!」

 キジョウを見れば、ココノエの予想外なことに、彼はくっくっと声を
押し殺して笑っていた。

「いいんだ、別に」
「でも……」

 ココノエとは別に、キジョウは本当に何でもないように微笑していた。

「書いただろう? ……『想いを消してくれて』、と」

 目を細めて、キジョウは続けた。

「もう完全に吹っ切れているよ。だから、君が気にする必要はない」
「キジョウさん……」

 まだ心配そうに、ココノエはキジョウを見た。
 そのキジョウの姿に、何か引きずっている様子はまるでない。

 ――事実、キジョウは全く過去を引きずってはいなかった。
 引きずるだけの熱情は、元・婚約者である女性の行いによって、無に
帰した。

「彼女とは別れたが、一つだけ約束があった」

 今どんな表情をしているか、キジョウには分からなかったが、きっと
無表情だろうと思う。
 自分を見つめる彼女が、相変わらず心配そうにしているから、笑って
はいないかもしれないとは思うが。

「付き合っていた当時、『手紙』を彼女の帰国日に合わせて出して欲し
いと言われていた。ご丁寧にも、彼女の目の前で、そのときに出す手紙
を書かされた程の、念の入れようだったよ」

 その言葉は、ココノエにとってどこまでも意外だった。
 どう受け止めていいのか分からないまま、キジョウの言葉は続いた。

「――本当は、単純に捨てようと思ってたんだ」

 それはきっと、『手紙』のこと。

「ただ……」

 そこまで言って、キジョウは口を閉ざした。

 本当は、そんな願いをした彼女の気持ちを、キジョウは全く理解でき
なかった。
 少しだけ間を空けて、キジョウは再度口を開いた。
 

「少しくらい、古風に恋人気分を味わいたい、そう言った彼女に対して、
そんな面倒なことに、何の価値がある……そう思ってた」


 そう思っていたのだが。
 ココノエを見やって、キジョウはにやりと笑った。


「だが、そんなことが好きそうな人間に心当たりがあってね。捨てる前
に…………一つ、賭けをしようと思った」

 キジョウが何を言いたいのか、ココノエにはさっぱり掴めなかった。

「もし、あの『手紙』に気がつかなければ、俺の負け。だが気付いたな
ら――」

 キジョウは身体を起こし、ココノエの頬を両手で包んだ。


「躊躇しない」


 真っ直ぐに見てくる瞳に、ココノエは目が逸らせなかった。
 ただ、思ったのは。

「あの、キジョウさん……?」

 ヤバイ。苦しい。
 ココノエの心臓が、今日何度とも知れない鼓動の急上昇を始めた。

「始めから」

 キジョウは唇に微笑を乗せたまま、続ける。



「相手は、君だった」



 キジョウは、その後の動向を見守るように、ココノエを待つ。

「え……え?」

 ココノエの心中には、疑問符しかない。

(ど、どういう意味?)

「あの白い手紙も、朱い手紙も、その対象は一人」

 とくんと、ココノエの心臓が高鳴る。


「君だけだ」


 少しだけ口を開いて、ココノエは唖然としてキジョウを凝視した。


「捨てようと思い、くだらないとまで思っていた物だ。
当時はただ、差し出された本の一節をうつしとっただけの、メモ程度に
思っていたが……自分がその立場になれば、唾棄はできないものだな」

 今の俺には、その作者の気持ちが分かる、そう、キジョウは続けた。


「え、え、えっと……それはどういう……いやいや、静まれ自分。アンチ
自意識過剰」

 キジョウへの尋ねと、自分への独り言が一緒になってしまうほど彼女
は混乱していた。

(キジョウさんの言葉をそのまま受け入れるとアレだけど、いや、そん
な上手い話があるわけ――)

「ココノエ」

(だって、考えても見なさい私。相手はこんな高級マンションに住める
美形。片や私は訳あり物件でかろうじて住んでる平均給与所得者だし)

「ココノエ」

(というか、これは夢か? 白昼夢? いやあ、まさか――)

「ココノエ」
「へ?」

 ものすごく考え込んでいたココノエは、キジョウがため息を漏らすま
で声をかけられていることに気付かなかった。

「君は……空想癖があるみたいだな」

 笑いを浮かべながら、キジョウは息をつく。
 同時に、ココノエは不安にかられてキジョウを見上げた。
 軽く添えられたキジョウの手が、何だかくすぐったい。

「――ココノエ」
「キジョウ、さん?」

 不意に真剣になったキジョウを見て、ココノエは我に返った。
 キジョウの手が、ココノエから離された。そして、一歩ココノエから
距離を置く。


「選ぶのは、君だ」


(選、ぶ……?)

 ココノエは迷った。
 選ぶというのは、どういうことか。

 先ほどまで言われたことが、首をもたげた。

(対象は、私……)

 キジョウはもう、答えをココノエにゆだねた。
 言われたことが真実なら、あの手紙の内容は、ココノエに向けたもの
だということだ。



  ずっと君を待っていた。


  好きだ。



  貴女のおかげで救われた。



 何の感情でか、震える手を意識しながら、ココノエはキジョウの腕に
手を添えた。

「わた、私……」

 声まで震えるのを認識しながら、ココノエは喉を鳴らした。


「私、キジョウさんのこと、好きです」


 言っちゃった!! と心の中で叫びながら、ココノエはキジョウの腕
を掴んだまま下を向いた。

 無限にも思える時間の後、強く身体を引き寄せられる。
 痛いと思うほどに力を入れて抱きしめられ、ココノエもさすがに上を
向いた。

「キジョウさ――」

 お願いしようとした言葉は、ココノエの中に戻った。
 言葉を紡ぐはずの唇は、キジョウのもので再度塞がれていたから。

 その行為の激しさに酸素を求めて口を開いた時まで、舌をからめとら
れ、ココノエの視野はくらくらと揺れる。
 揺れた視野を保とうとよりしがみつく手が、キジョウの劣情を誘うと
も知れずに、ココノエは必死に自己を保とうとしていた。


 どれほど続いた頃か、キジョウがようやくココノエを解放した。


「キジョウ――」


 見上げたココノエの目に入ったのは、見たこともない表情のキジョウ
だった。

(笑ってる……)

 深く。満足そうに。
 キジョウは、ゆっくりと笑っていた。

 それを見て、ココノエの胸の中に、温かいものが広がっていく。


(ああ……そっか…………)


 思った。
 別にもう、キジョウとの格差とか、美男と野獣とか、気にしなくても
いいんじゃないかと。

 ただ、キジョウと自分の気持ちが一緒でさえあれば。


(変なことに、こだわってたのかな)


 実際は、キジョウに相手にされなかったことに対する防壁を築いてい
ただけなのに。

 格差があるから。
 自分は綺麗じゃないから。

 だから、振られても仕方ない。
 そんな言い訳を作るだけの、ただの自己防衛。

 ココノエは今、ようやく素直に想いを受け止めた。

 ちなりと見上げれば、キジョウと目が合う。

「……」

 ココノエは、何も言わずにただ、深く笑った。
 つられるように、キジョウも笑みを深くする。


(あ〜……普段冷静な表情してる人の笑顔って、攻撃力高いなー……)


 そんなことを、ココノエは思う。


 しばらく、二人は無言でその余韻に浸っていた。





















 抱きしめられたまましばらく経った後、キジョウは呟いた。


「――しかし……気付かなかったのか?」
「え?」

 ココノエは、キジョウの言う意味が分からず聞き返した。
 ココノエの頭を手で胸に引き寄せて、キジョウは息をついた。


「見知らぬ『貴女』に」


 聞き取れるか否か程度の大きさで、キジョウから言葉が漏れる。

「おかしいとは思わなかったのか、その一節のこと」
「へ?」

 頭を押さえられて身動きが取れないまま、ココノエはキジョウの話に
耳を澄ます。


「見知らぬと言っていながら、『貴女』という言葉がある。本当に相手
のことを知らないのなら、女性に対する『貴女』という言葉は使わない
だろう?」
「あ……」

 ココノエは、指摘されて初めてその点に気がついた。

「……本当に、気付いてなかったのか……」

 ココノエの頭の上から、ため息が聞こえてきた。
 見上げようとした頭は、今だに押さえられたままなので、ココノエは
キジョウの胸に頭突きした。

「それどころじゃなかったんですよ」
「――君らしくて、いいんじゃないか?」
「え」

 初めて褒められた。
 ちょっと感動して、見上げたココノエの頬を、キジョウの片手が滑る。


 キジョウの目が細まり、少しずつ、彼との距離が縮まっていく。


 ココノエは赤くなりながらも、微笑みながら目をつぶった。




 


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