○ 文通恋愛 ○






「うわ、ヤバイっ! 寝過ごした!」

 うたた寝のつもりが本寝になったハクアは、慌ててカウンターから身体を起こして
入口の扉に駆けて行った。

 開店、1分前。

「ギリギリだあ〜……」

 ふう、と額の汗を拭うフリをしながら、ハクアは再びカウンターの奥に戻った。
 お客が全く来ない日も珍しくないが、ハクアはいつも店に居る。
 お客にレプリカを見せたくはないという信条の元、カウンターには本物が並べて
あるため、片時でも目を離す訳にはいかないからだ。

 当然の事ながら、魔杖師と言えども職人だ。作り続けることで上達する。
 杖が売れるよりも生産されるスピードの方が速いため、今日も店には数多くの杖が
並んでいるわけだ。


 カラン コロン


 開店から10分ほどと言う異例の早さで、来客を告げるベルが鳴った。

「あ。いらっしゃいませ」

 ハクアが顔を上げると、フードを深々と被った人物が入って来たところだった。
 鼻と顎しか見えないが、男性だろう。

「何をお探しですか?」
「……」

 男は無言でカウンターの前に止まった。
 ケースの中に収められた数々の杖を眺めている。

「これは、あんたが?」
「はい、私が全て制作しました」

 返事だけ聞いて、杖を隅から隅まで眺める。

「――クラスは?」
「え?」
「認定クラスは何だ。外には認定証がなかった」

 多くの魔杖屋は、クラスの書かれた認定証を外から見える場所に飾っておく。
 色々理由はあるが、信用と価値の保証のためだ。
 同時に、店の値段を決める基準にもなる。

「外から見える場所には飾っておりませんので――そちらに御座います」

 ハクアは、店内でも最も見えにくい場所に認定証を飾っていた。
 こんな治安の悪い場所で高位クラスの認定証を飾っておくのは、「此処には高価な
品が沢山ありますよ〜」と宣伝するようなものだ。

「A+……なるほど。いい品だ」

 かすかに笑って、男はハクアの杖を褒めた。

「ありがとうございます。そう言って頂けるのが喜びですので」

 本当に、そうだった。
 嫌がらせを受け続けた学院生活。その中で自分の価値を見出せるのは、誰よりも
優れた杖を作ったときだけだった。(その後嫌がらせは激化するが)
 だからハクアは、自分が作る杖に誇りを持っている。
 だから、その杖を褒められると、喜ばずにはいられない。

「これなら、“幸運の娘”の話にも信憑性がある」

「え――」

 すぐ目の前に、刃があった。
 切っ先は喉元に向けられ、ハクアから見ることは出来ない。

 視線だけで、杖のある位置を確かめた。が。

「止めた方がいい。杖は、屋内で使うものではない。そうだろう?」
「……」

 悔しいが、男の言うとおりだった。
 貧弱な杖ならまだしも、店で売っているような杖は、屋内向けではない。
 室内で水を出すのも火を放つのも、賢い選択ではない。

「安心しろ。殺しはしない」
「――何が、目的?」

 気丈に、ハクアは尋ねた。
 本当はとても怖かったけれど。

(あの魔獣に会ったときほどじゃない)

 今までハクアは、この考えで色々なことを乗り越えてきた。
 あれほど恐ろしく、死に近い経験はない。

「雇い主があんたに、“幸運の娘”にご用なんだ」
「またか……」

 いくら違うと言っても、噂は一人歩きしている。
 ハクアは幸運でも、奇跡でもない。幸運だったら、こんな目に遭ってない。

 そのまま、フードの男にナイフを突きつけられた状態で、“雇い主”が待つ場所
へと向かった。




 * * *




「此処は?」
「酒場。アンダーグラウンド専用だけどな」

 普通の客が来る酒場ではなく、非合法で儲ける人々の集まる酒場。
 その一角に、ハクアは招待された。
 と言っても、腕を後ろ手に縛られ、半ば引きずられるようにしてだったが。

 通常の酒場の奥にある部屋には、黒服を着たガタイのいい男が二人立っていた。
フードの男が片方に何か伝えると、無言で黒服の二人は足元の床を外した。

(なるほど)

 こんな裏の道を知る気は全くないのに、無理矢理見せ付けられるなんて最悪だと、
ハクアはため息をついた。

(無事に帰れるのかなぁ……)

 いっそ目隠しでもしてくれればいいものを。ハクアは心の中で毒づいた。
 地下の世界に関わって、無事帰してもらえるか、甚だ疑問だ。

 石段を下り、じめっとした石造りの廊下を通り、幾つも並んだ木造の扉のうち、
一つを開けた。

「早かったわね」

 中に居たのは、妙齢の女性――と言いたいが、毛皮で覆われたフードを目深に
被っているため年齢は分からない。
 こんな場所に出入りするのを見られたくない人間。恐らく名のある者なのだろう。

 彼女の後ろには、護衛を思われる男性が2人、明らかに傭兵と分かる男が2人。
 全員、とても体格がいい。

(暑っ苦しい。クドイ。酸素が薄い)

 筋肉だるまを部屋に詰めるなら、ある程度の広さが必要だと思うハクアだった。

「じゃあ、俺は此処で」
「ええ。ありがと」

 ハクアをつれて来た男性は、それだけ言うとすぐに部屋を出て行ってしまった。

「貴女が、幸運の娘?」
「違います」

 女性の目の前に座らせられながら、ハクアは答えた。
 周りを筋肉に取り囲まれると、拷問にかけられている気分になる。

「嘘を言っちゃいけないわね……」

「痛っ!!」

 パチンッという甲高い音と共に、ハクアから叫び声が漏れる。
  
「な、な、な……っ?」

 目の前の女性は、口角を上げて笑った。ハクアにとって初めて見る高笑いだった。
 彼女の手には、黒い鞭が握られている。
 どうやら、それでテーブルの下の足を叩かれたらしい。

(じょ、女王様!? 止めてよそんな趣味ないから!!)

 夜の街で働いていれば、自然とそういう知識は入ってくる。
 が、ハクアはさすがに実体験はしていない。そしてその趣味もない。
 痛いのは嫌だ。

「貴女、“幸運の娘”として有名よ。何でも、魔獣に襲われることなく森を自由に
歩き回れるとか」
「違います――っ!」

 再び。足に痛みが走った。

(この人嫌いだ!!)

 何を今さらと思いつつ、改めて目の前の女性が嫌になった。
 嗜虐趣味を自分に向けるのは止めて欲しい。

「わ、たしは!」

 ハクアはこれ以上叩かれないうちに、反論した。

「危険な場所には近づかないだけです! 何も幸運なわけじゃない!」

 獣は魔杖で追い払える。
 問題は魔獣だが、魔獣にも縄張りがあり、あまり出歩くことはない。
 だから目撃談から比較的安全だろうと思われる場所を導き出して、その範囲から
出ないようにしているだけだ。
 それが何故か、ハクアを“幸運の娘”と誰かが呼び始め、いつの間にか広がった
に過ぎない。

「貴女は知らないのかもしれないけど、貴女が言う“安全な場所”に魔獣が現れた
こともあるのよ。にもかかわらず、貴女は魔物に遭遇することなくまだ生きている。
――十分、幸運だと思わない?」
「……」

 確かに、ハクアがいつも歩いている場所に魔獣が現れたという話は聞いたことが
ある。

 ハクアだって、自分でも不思議に思うのだ。
 きっと、誰よりもハクアは森に行っている。でも、あの日から魔獣に遭ったことが
ない。
 それはまさに、“幸運”というに相応しい程の確率だ。

「――まあ、どちらでもいいのよ」
「え?」

 にやりと、毛皮の女性が笑う。

(蛇みたい)

 夜中にタマゴ丸呑みしてそうだと、ハクアは思った。

「話が本当なら、私たちもその幸運にあやかれる。嘘なら、魔獣に遭ったときの餌
に使えるわ」
「餌!?」

 女性が立ち上がり、腰をかがめてハクアの顎に人差し指をかけた。

「どちらにしろ、十分使える駒なのよ」

 嘲笑うように、女性はハクアに笑いかけた。
 上質な服を翻して、出口に向かう。

 ハクアは無理矢理、傭兵らしき男に荷物の如く肩に担がれ、その場を後にした。





 * * *





「んー! んー!! んんー!!!」
「うるさいわよ」

 ハクアは今、猿轡をされた上に大きな袋に入れられた状態で、運ばれていた。
 先ほどまで静かだったハクアが急に騒ぎ出したことに気を引かれたのか、女性が
ハクアを袋から出すよう指示を出す。

 袋から出されたハクアの目に飛び込んだのは、案の定『恵みの森』の中の景色。

「それも取ってやって」

 女性がハクアの顔を指差し、猿轡が外された。

「挨拶!」
「は?」
「森への挨拶してない!!」
「何言ってるの、貴女」

 明らかに不審そうな目をして、女性と傭兵たちがハクアを見る。

「森に入る前には、ちゃんと手順を踏む必要があるのに……!」
「そんなの、迷信でしょ。そんなことやってるの、貴女くらいよ」

 ハクアを鼻で笑って、女性が足を進めた。
 ハクアはその場に下ろされ、今度は後ろで縛られた手を押されるように歩かされる。

 不安だった。
 確かに、ハクアが行っている簡易儀式(挨拶)は気休めかもしれない。
 でも、この森に対しては、用心してし過ぎることはない。
 魔獣に遭ったときの恐怖は、体験した者にしか分からない。

「何処に、向かってるの?」
「行けば分かるわ」

 ただ黙々と、一向は森の奥へ奥へと進んでいく。
 ハクアの不安は増していく。

「そっちはダメ……行っちゃダメ!」
「うるさいわね……私はあっちにこそに用があるのよ」

 ハクアはその場に止まろうとしたが、屈強な傭兵二人に持ち上げられるように
動かされてしまう。
 内臓がせりあがってくるような感覚を、ハクアは感じていた。

 何故なら、一行が向かっているのは、ハクアが決して向かうことのなかった場所。
 かつて、人語を話す魔獣に出会った、呪われた場所だからだ。

「魔獣がいるの! 死んでもいいの!?」

 必死に、ハクアは止めようとした。
 森に響かない範囲で、声を張り上げて。

「そのためにこいつらを雇ってるのよ。足を踏み入れて、誰も戻ってこなかった
場所……それが此処から始まるの」

 彼女は手元の地図と森を見比べてから、ハクアに振り返った。

「この森は不思議なくらい貴重な動植物であふれてるわ。その中で、生きて帰って
来た者がいないブラックゾーン……どれほど価値のある物が眠ってるのかしら」

 恍惚とした表情で、彼女は呟いた。

「誰も帰って来なかったのには理由があるに決まってるじゃない! どうして――」
「黙らせて」

 必死で説得しようとするハクアに興味をなくしたように、彼女は命令し、再び
ハクアは猿轡を付けるはめになった。

「魔獣がいることなんて百も承知よ。だからこそ、行く意味があるんじゃない。
危険であればあるほど、其処に眠るものの価値が上がるのよ」
「んんーー!!」

 何も知らないというのは、ある種の強さだ。
 ハクアは、何も出来ない悔しさと、刻み込まれた恐怖から震えだす。

 ここはもう、あの魔獣がいた縄張りの中だ。
 他の誰も気付いてはいないけど、ハクアは分かった。
 何度も森に足を運んだからこそ、明らかに異なる空気を感じ取れる。
 此処は、空気が重すぎるのだ。

「ん、んんっ!!」
「うるさいわね! そんなに行きたくないなら望みどおりにしてあげるわよ」

 女性は怒鳴った後、その場で足を止め、ハクアを下ろすよう男たちに指示した。
 手を縛られ、猿轡をはめた状態で投げ出される。

「此処で待っているといいわ」
「!?」

 魔杖も振れない、いや満足に立ち上がることすら出来ない状態で置いていかれたら、
ハクアを待つのは“死”だ。

「そうそう……これもいらないでしょう?」
「!! んんー!! んーー!!!」

 女性はにこりと笑うと、ハクアから魔杖を取り上げた。

「貴女、腕の良い魔杖師らしいじゃない。いいお金になるわ」
「んんんーーー!!!!」

 女性はハクアから全ての魔杖を取り上げた。
 コウア師から貰った杖も、あの“黒い杖”も。

 ハクアから、一気に血の気が引いた。
 その2本の杖は、ハクアにとって何よりも大切な物だ。
 ハクアが睨みつけても、女性はただ笑うだけ。

「それにしても……これ以上叫ばれると魔獣に気付かれるわね」
「!?」

 女性が、護衛の一人に声をかける。

「黙らせて」

 今度は、先ほどとは意味が違う。
 これは、話せないようにするという意味だ。その元を断つことで。

「んー! んんーー!!」

 助けてと声にならない声で訴える。
 だが、黒い眼鏡の奥にある護衛の瞳は、ハクアに何も伝えない。

 護衛は腰から剣を抜き、高く振り上げる。
 木々の隙間をぬって差し込む日の光が剣に反射し、ハクアは思わず目を閉じた。

 空を切る、剣の音。

(やだ……っ! まだ『あの人』に会えてない!!)

 必死でハクアは縛られたまま暴れた。少しでもその場から逃げようと、
 地べたに倒れこみながら少しでも這いずり回った。


「何!?」


 甲高い、女性の悲鳴が辺りに満ちた。
 いくら待っても死は訪れず、ハクアはそっと目を開けて後ろを振り返った。

「え……?」

 そこに、剣を振り上げた傭兵はいなかった。
 いや、そこに居たのは、ハクアをココまで連れてきた女性と傭兵が一人だけ。

「何、で……?」

 縛られて横になったまま、ハクアは周りを見まわした。
 他にも居た傭兵が、今はたった一人。
 女性も、たった一人となった傭兵も、中空を見つめたまま震えている。

「ひっ!」

 ザスッという音と共に、ハクアの目の前に剣が落ちてきた。

(チャンスだ!)

 ハクアはじりじりと芋虫のように剣に近づく。

「きゃああっ!!」

 後ろでは、女性のけたたましい悲鳴が上がっていたが、ハクアは振り向く余裕も
ない。
 今何が起きているかは、ハクアには全く分からなかったが、気にしている場合で
はなかった。

 ここは恵みの森だ。
 あらゆる者に恵みを与える森。
 しかもこの場所は、あの魔獣の領域だ。
 
(逃げなきゃ!!)

 ハクアは誓ったのだ。
 もう一度『彼』に会って、礼を言うのだと。

 剣まで今一歩というところで、ハクアの動きは妨げられた。
 後ろ手で縛られていたハクアの両手を、強い力で誰かにつかまれる。

「あんた!!」

 無理矢理振り向かされたハクアが見たのは、恐怖に引きつったあの女性の顔。

「幸運の娘なら、助けなさい! この森から抜け出す方法を教えなさいよ!!」

 女性は綺麗な顔をゆがめて、絶叫した。
 冷静さを保っていた彼女の顔は、今や恐怖に彩られていた。

「そんなの、ない」

 ハクアは、彼女の恐怖に伝染されながらも、冷たく言った。

「もう森に入ってしまったもの。きっと、もう魔獣にはばれてる。逃げる道は――
ない」
「嘘言わないで!! あんたは何度も森から抜けたじゃない!! 此処には何かが
いるのよ! 傭兵たちを消した何かが!!」

 強い力でハクアを揺する彼女を見ながら、ハクアは顔をゆがめた。

「――逃げて。アイツに見つからないうちに早く!」

 ハクアはそう言って、彼女に逃げるよう促した。
 しかし彼女はそのまま、佇んでいる。

「逃げてってば!」
「……いやよ。貴女がいれば、いざというときに囮にできるわ」
「な!?」
「案内して! 出口まで絶対逃げてやる――」

 ――瞬間、辺りに光が満ちた。

「な、何!?」

 驚く女性の前で、ハクアは震撼した。
 先ほどまでハクアたちを取り囲んでいた木々の一角が、えぐられ、白い灰となっ
ている。

「あ、あ、あ……」

 見覚えのある、光の炎。
 それは、ハクアに嫌な記憶を蘇らせた。




『これはこれは……良い芳香につられて来れば……』




 辺りに響いたのは、時がたっても薄れない、恐怖の声。



 木々の間から、――“赤毛の獅子”が、姿を現した。


「いやああっ!!!」

 ハクアの前にすぐ後ろに立っていた女性が、魔獣を前にして駆け出した。
 赤い獅子は、その姿を一瞥したのみで、ハクアに向き直る。


『懐かしいのう――娘』


 にたりと、赤い獅子は顔をゆがめた。

「ひ、ひ……」

 じりじりと獅子が一歩ずつ近づくに連れて、ハクアも後ろに下がった。
 獅子は、わざとハクアが出せるギリギリの速度で前に進んでくる。

『これまでわしが見逃した人間は――娘、お主だけだ。それからどうにも目覚めが
悪くての……』

 少しずつ、本当に少しずつ距離を詰めながら、獅子は笑う。

『しかし、今“守り”は崩された。先ほどの傭兵どもには感謝せねばな』
「守、り……?」

 “守り”という言葉に、何故傭兵たちのことを知っているのかとか、そんな疑問
は塗りつぶされた。

 後ろをちらりと見て、そしてハクアは魔獣をひるむことなく睨みつけた。
 身体はがくがくと震えながら、それでも視線は揺ぎ無い。
 魔獣はそれを愉快そうに見ながら、また一歩近づいた。

『ヌシを守る者は此処には来ない。此処はわしの領域だ』
「守る者……?」

(私を、守る者?)

 ハクアは、ただ不思議だった。
 恐怖を拭うほどに強い、その疑問。

『人間にも法があるように、森に住まう者にも掟がある。それを破らせる程の価値
は、ヌシにはなかろうて』
「……」

 ハクアは、獅子の言葉に耳を傾けながらも後退を続けた。

(もう少しー―っ)

『さあ、お喋りも終わりとしようか』

 一歩、大きく獅子が踏み出した瞬間に、ハクアの手に冷たい感覚が走った。

(此処だ!)

 ハクアは傷つくのも恐れずに、縛られた両手を振り上げた。
 地面に刺さった傭兵の剣で、縄を切るためには、傷つくことなど恐れてられない。
 生きる道を切り開くために、躊躇している暇はない。

 そのとき、赤毛の獅子が大きくハクアに飛び掛った。


『心置きなく、わしの血肉となれっ』


 ――瞬間、ハクアの手が自由になる。

(切れた!)

 考えるよりも早く、ハクアは両手で剣を振り上げた。

 ギィンッという高い金属音と同時に、ハクアを衝撃が襲う。

「きゃあっ!!」

 赤毛の獅子の衝撃を受けきれずに、ハクアは地面に再度倒れた。

『まだ抵抗するか……それも面白い』

 先ほどまでハクアが持っていた剣が、獅子の足によって折られる音が、辺りに響く。

(鉄剣を、足で……?)

 一度剣を振っただけのハクアの手は、重さと衝撃で震えている。
 あれほど重く、丈夫な剣を、獅子は片足で草を折るように、折ってしまった。

『次はどう抵抗してくれるのだろうな?』

 相変わらず笑ったまま、獅子はハクアに足を進めた。

「私は――見世物じゃない!」

 ハクアは絶叫しながら、胸元のペンダントトップを引きちぎって獅子に投げつけた。

『こんなもので、抵抗か?』

 興ざめしたとばかりに、獅子は息を漏らした。
 足元に落ちたペンダントトップを踏み潰そうと、足を上げたそのとき。


『柑橘3号!』


 ハクアは叫んだ。


『グアァアア!!』


 芳しい香りと共に、獅子の咆哮が響き渡る。
 ハクアはその瞬間、森の出口に向かって駆け出した。

(こんなときのために用意しておいた柑橘3号! 猫科でなくとも、鼻の利く動物
にはキツイでしょ!)

 万が一に備えて、ハクアは柑橘3号という魔杖を用意していた。
 ハクアが独自に試行を繰り返し、何とか出来上がったペンダントトップ型の魔杖。
 小さい分1度限りしか使えないが、非常用としては十分だ。
 柑橘3号は、発動した瞬間にオレンジ100個分の芳香を放つ魔杖だった。


 魔獣が苦しんでいるを隙をついて、ハクアは足を踏み出す。











 ハクアは走った。
 無我夢中で、とにかく前へ前へと足を進めた。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 必死に力を振り絞って、足を進め、酸素を肺に送る。
 剣で無理矢理引きちぎった縄は、手首に巻きつき、痛みをもたらす。

(怖い……怖い……っ!)

 涙がこみ上げるのを感じながら、ハクアは走った。

「助けて……っ! 誰か助けて……っ!!」

 誰も助けなど来ない。そう分かっていても、ハクアは言わずにはいられなかった。

(怖い)

 一度封じ込めたはずの恐怖は、簡単にこみ上げてきて、ハクアを侵食する。
 吐き出す息さえも、魔獣に聞き取られているかと思うと、足がすくんで転びそう
になる。

 思い出すのは、『彼』だ。
 昔は、『彼』に助けてもらった。
 でももう、『彼』の助けは望めない。

 ハクアの脳裏に、黒い影がよぎる。
 闇の姿をした、『彼』の影。

(もう一度、会いたかったのに――!)

 そのとき、何かにつまずいてハクアはその場に倒れこんだ。

「ぅぐっ!!」

 べたっと地面に激突したショックで、肺から空気が吐き出される。

「っ、ぅ……っ」

 腹部を強打し、痛みで思うように息が出来ない。
 涙でにじむ視界の中で、ハクアは自分がつまずいた“モノ”を目にした。


「ひっ!!」


 そこに倒れていたのは、先に逃げたはずの、あの女性だった。
 赤い獅子か、それとも他の獣によるかは分からないが、無残な姿となった女性が、
地面に身体を横たえていた。
 その姿を直視できず、ハクアは目を逸らした。

 全く親しくなくとも、多少会話をした相手だ。

 胃液がこみ上げてきて、ハクアは生理的な涙をこぼした。

「ごほっ か……ふっ」

 地面に両手をついて、こみ上げるものを吐き出すようにハクアは咳き込んだ。



『鬼ごっこは終わりか?』



 低い、地を這うような声がハクアの耳に届いた。
 涙目で振り返れば、嫌な予想通り、赤い獅子が其処に居た。

 先ほどと違うことがあるとすれば、口元を濡らす赤いもの。

(あれ、は……)

 恐らく、あれは血だ。
 そう思い当たった瞬間、ハクアの全身が震えだした。
 走ったために熱くなるはずの身体は、恐怖によって凍てついた。

 勝手に震える顎が、カチカチと音を立てる。

 赤い獅子は、どこまで愉しそうに、ハクアを見つめていた。

『ああ……その目だ。その恐怖と絶望に彩られた瞳が、何よりもわしに生を感じさ
せる』

 生ぬるい風が、獅子の辺りから吹き上げ、ハクアの髪を撫でる。
 湿った、息苦しい風。

(や、だ……っ、やだ……!!)

 どんなに心の中で死を厭おうとも、身体は動かない。
 身体だけは、既に死を受け止めているかのようだった。

『この時間が終わるのは残念だが、ヤツが下手な手を打つ前に終幕といくかの』

 獅子の足が、持ち上がった。

 あの足が地に付いた瞬間、自分は死ぬんだろう、ハクアは思った。


(嫌だ……もう、一回……会いたい!)


 死を意識した瞬間、ハクアの中に同じくらい、いやそれ以上に強い想いが浮かび
上がった。

 サクッと、草を踏みしだく足音がハクアの身体の神経を引き戻す。

 赤い獅子がハクアに向かって駆け出すのを目の端に留めながら、ハクアは生きる
べく、少しでも遠くに逃げようと身体を起こした。


『さあ――血肉と還れ』


 すぐ後ろに圧倒的な存在感を感じなから、ハクアは一歩に力を込める。


 その後は、まるで一瞬一瞬を繋ぎ合わせたように、時がゆるやかに感じられた。


 踏み出したハクアの目に、慣れ親しんだ、木の枝のごとき棒が飛び込んできた。
 慌てて進路を変え、その棒に向かって、飛びついた。

 先ほどまでハクアが立っていた場所を、獅子の爪がえぐる。


『まだ逃れるか』


 苛立ちの混ざった獅子の声が聞こえる方向へ、ハクアは全力で掴んだ棒を振り抜いた。


『ジオールド!!』


 ハクアが命を拾った昔、獅子に放った炎の魔杖で、ハクアは再度血路を願う。

 以前とは比べようもなく強力な業火が、獅子を襲う。
 放出するのではなく、炎の範囲を極限まで絞った新しい杖は、森に被害を与える
ことなく対象だけに襲い掛かった。


 ハクアは結果を見定めることなく、後ろを全く振り返らずに駆け出した。


 少しでも、少しでも出口の近くへ。


 ハクアは無意識に、通いなれた祠のある方へと進路を変えていた。


(絶対に、もう一度あの人に――!)


 その想いがある限り、ハクアは死ねない。





 


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