鉛のように重い足を無理矢理持ち上げるように、ハクアは走り出す。
 ただただ、ハクアにあるのは、生と『彼』への執着だ。

 転びそうになっても、木の幹にぶつかりそうになっても、そして枝であちこちを
傷つけても、ハクアは足を止めなかった。

 木々が、流れるように過ぎ去っていく。
 風が、熱せられた身体を冷やしていく。

 不思議なほどに、森の音が聞こえない。
 鳥も獣も、全てが魔獣を恐れて声を潜めているようだ。


 時は遠く。ある詩人は命からがら『恵みの森』を抜けた後、唄った。

『耳をすましなさい、ヒトなきものに。
 息をひそめなさい、理不尽な森の守り手に。
 ヒトなきものは、守り手の姿を知っている。それゆえ、目を伏せ、鼓動を静め、
 聞き入りなさい、ヒトなきものに。
 彼らが声を殺すとき、それは守り手の闇と血の爪を避けるため』

 森の動物が静まるのは、血を好む魔獣が通るとき。

(そんなの、分かりきってるけど!)

 あの魔獣が血気盛んなことくらい、身に染みてハクアは分かっている。


 揺れる視界の中、ひたすら駆けていたハクアの頬に、一陣の温い風がかかった。

 ハクアは本能が叫ぶままに、傷つくのも構わず、大地に滑り込んだ。


「!!」


 倒れているハクアの真上を、白い光が通過し、進行方向の木々を灰にした。
 もう、確認しなくても分かる。

「だからしつこい奴は嫌われんのよ……っ」


 煙の中から、赤い体躯が姿を現した。










            ○ 文通恋愛 ○











 尾の蛇が、シューシューと息の音を立てながら、うねっている。
 獅子様は、そろそろご立腹らしい。

『……そろそろ、逃げ惑う小鳥を見るのも、飽きたものだ』
「だ、だったら、もう帰ったら?」

 精一杯、時間を稼ごうと、ハクアは軽口を叩いた。
 醜悪に、獅子の口がめくりあがる。

『そうだ。その震える声が、断末魔の歌を響かせるのを、聞きたいものよ』

 鮮血と輝く毛で赤を体現する魔獣は、愉しそうに目を細める。

 来る。

 間をとって立っていた獅子が、ふわりと浮き上がる。
 どんな原理で宙に浮いているのか、ハクアは興味を抱く余裕もなかった。

 命と同じくらい、大切にしている杖が二本、ハクアの手の中で存在を主張する。

 師匠の魔杖と、『彼』に貰った品々で作った黒の魔杖。
 火起しの『ジオールド』がもう役に立たないことは分かっている。

 他の二本は、効果が定まっていない。
 特に黒の魔杖は、未完成なのだ。

 黒の魔杖には、まだ“名”がついていない。魔杖の力を呼び起こす、杖の“名”
が。


『さあ、遊戯は終わりだ、幸運の娘よ。アレを惹き付け、今まで生を伸ばした奇運
も、これで終わりだ』


 ふとその一節に引っかかりつつも、ハクアは毛を波打たせる獅子に向かい、意を
決した。


 半身だけ起こした形で、ハクアは杖を握り締めた腕を大きく振った。


『イーニッド!! ――っ』


 ハクアは、自身の師から継いだ魔杖の名を唱え、一瞬だけ、躊躇した。

 黒い魔杖。

(『彼』の名を、付けたかった――)

 それはあくまでハクアの勝手な事情だけれど。
 『彼』に会って、名前を聞いて、魔杖の名にしていいか尋ねるのがハクアの小さ
な夢だったのだ。

 ほんの一瞬で迷いを振り切り、ハクアは唱えた。



『――ハクア!!』



 心に陰を落としながら、自身の名を。
 『彼』の名が付けられないなら、ハクア自身の強い願いが込められたこの杖に
相応しい名は、一つだけ。

 緑化の杖『イーニッド』は、今までとは異なり、鈴のような高い音を響かせた。
 しかしそれ以上は何もない。

 赤い獅子は、様子を見ようとでもするかのように、その場で浮遊している。

 焦るハクアを尻目に、時間をずらして、黒い魔杖が反応を示した。

「!?」

『――なに?』

 ハクアが息を呑むのと同時に、獅子が声を漏らした。


 ハクアの持つ、黒い魔杖から、染み出るように黒い霧が舞い上がる。
 じわじわと、ハクアの手を侵食して、霧は杖を中心に氾濫し始めた。

「わ、わあっ!!」

 気味が悪くなって、ハクアは杖を思い切り振りかざした。


 ――直後。


 霧は鋭い塊となり、振った方向へと自ら突き進んでいった。

『チッ』

 舌打ちしながら、獅子は素早く身を翻した。

 霧の固まりは獅子の後ろにあった木に当たって、霧散する。

(な、何……?)

 獅子が避けるほどの反応を見せながらも、木には何ら変化がない。


『ヌシ、その杖を――いや、元となるモノを何処で手に入れた?』


 獅子が、声を低くして尋ねる。
 ハクアは、答えてはいけないと感じて、ただ首を振った。

『ふん、言わずとも分かりきっておる。クロックスの輩が、爪を与えたな』

 爪……そう聞いて、ハクアはびくっと大きく身体を震わせた。
 黒い魔杖の元は、漆黒の爪だった。
 『彼』に貰った、品々の内の一つ。

『そこまで人間に肩入れするとは……由々しきことよ』

 獅子が自己に問いかけている内に、ハクアはじりじりと後方へ動いた。
 少しでも、獅子から離れるために。

 だが、それも一瞬のこと。

『娘』
「!?」

 獅子が、大きく身体を振るわせる。

『それは、人間が手にして良い力ではない。また、我らに深く関わる人間もいらぬ。
消えるが良い、人の子よ』

 もう一度杖を振ろうとして、顔を上げた瞬間、すぐ目の前に獅子が開口して襲い
掛かっていた。

(間に合わないっ!!)


 痛みに耐えるように、ハクアはぎゅっと目をつぶった。
 風だけが、ハクアを撫でる。
 









 でも、痛みはハクアを襲わなかった。

 緑の香りが、ハクアの鼻腔をくすぐる。
 これは、いつかハクアが感じた香りと同じもの。

 そっと、ハクアは目を開けた。

 視界一杯に、漆黒の毛が広がる。


「え……」


 一匹の魔獣が、ハクアの前に立っていた。
 赤い獅子と対峙するように大地に足を下ろす魔獣は、黒狼の姿をしている。

『――まさか、来るとは思わなんだ』
『……』

 心底意外とでも言うように、赤い獅子は呟いた。
 対する漆黒の狼は、何も言葉を発しない。

 赤い獅子は、先ほどまでの面白がるような声を一転させて、牙をむき出した。

『何故そのような取るに足らぬ人間の娘に深入りする……此処はわしの領域ぞ。 
手出しは無用、ヌシは森の掟を軽んずるか!』

 それでも、ハクアの前の獣は何も言わなかった。

 見ていて、不思議な感覚がする。

 ハクアはそう思った。
 こんな獣に、出会ったことはない。
 でも確かに、この獣は赤い獅子からハクアを守ってくれている。

『何も言わぬか? ならば容赦はせん。ヌシはともかく、そこの小娘は喰いちぎっ
てやろう!』

 その声が持つ威圧感に、ハクアが震え上がったときだった。


『――願いだ』


 ぼそりと、かろうじて聞き取れる程度の大きさで、目の前の獣が呟いた。


『古木の婦人が、この娘を助けるよう願った』


 その声は低く、ハクアの内臓にまで響いてくる。

(聞いたこと、ある…・・・?)

 ハクアは、恐怖さえも忘れて聞き入った。

『古木の……何故だ』
『この娘は、瀕死の婦人に力を与え続けていた。婦人はこの森を最も古くから支え
続ける古木の一枝だ。彼女の顔を立てることはできないのか?』
『……』

 ハクアには、この二頭が何の話をしているのか、全く理解できなかったが、森の
木の一つが、ハクアを助けて欲しいと願っているのだけは、分かった。
 そんなことが在り得るのかは、さておき。

 それを聞いた赤い獅子は、口を閉じて無言になった。

『森に恵みを与えるものには、死の闇ではなく敬意を与える……俺たちの掟だろう』
『……』

 今度は、赤い獅子が無言を通す。
 でもハクアには、そんな状況よりも、漆黒の狼の声を頭に焼き付ける方が重要だ
った。確かに、この声に昔、出会ったことがある。

『それが、爪をも与えた理由か?』

 苦々しい声で、獅子が狼に尋ねた。
 しかし、狼は押し黙るだけで何も言おうとしない。


『――ふん……ほんに、幸運の娘だな、その小娘は』


 ばさりと、大きな風の音を立てて、赤い獅子が飛び上がった。

『そうだな……確かに、この娘がもう少し、お前の領域の深部側に倒れていたら、
婦人の願いは叶わなかっただろう』

 狼は、すこしだけハクアの方を見て、ハクアの手元を見る。

『僅かでも、俺の領域に入っていたからこそ、口が出せた』

 ハクアの指先に、白く咲き誇る花の花弁が当たっている。
 先ほどまでは咲いている花などなかったのに、唐突に彩が森に戻っている。
 まるで、ハクアの指先の場所で、森が別れているように感じるほど、明確な差。

『ふん……色ボケ狼めが』
『――………………大きなお世話だ』

 先ほどまでの緊張は何処へやら、獅子は暴言を吐いて、宙へと身体を躍らせた。
 赤い残像だけが、ハクアのまぶたに残っている。




 無言で、狼がハクアを振り返った。
 真っ直ぐに、ハクアの瞳を見つめる。

 吸い込まれるようにハクアは狼の灰色の瞳を見つめ返した。

(何だろう……違和感が、ある。理由はわからないけど、何か……)

 ハクアが違和感の正体を確かめようとしていると、狼がハクアの横を通って、
歩き出した。
 ハッとしたように、ハクアは慌てて立ち上がり、狼に続く。

「あの……っ」
『……』

 狼は、何も答えない。
 堂々と大地を踏みしめて歩く姿は、ハクアを圧倒する。

「助けてくれて、ありがとうございました」
『…・・・礼なら、古木の婦人に』

 振り向かないまま、狼は呟いた。

「古木の婦人?」
『お前が魔杖を使っている、大きな木のことだ』

 何のことだと考えて、ふと思い当たった。
 ハクアが師からもらった緑化の杖で、定期的に術をかけている枯れ木のことだ。
 そういえば、魔獣は森に『恵み』を与えるのだと、何かで読んだ記憶が、ハクア
にはある。その『恵み』が何を指すかは不明だが、魔獣は森の木々と何か繋がりが
あるのかもしれない。

『……お前の魔杖が、古木の婦人を呼んだ。俺は、婦人から頼まれただけだ』
「それでも、ありがとうございます。本当に、助かりました」

 ハクアは深々と、頭を下げた。
 太く逞しい足で闊歩していた狼が、初めて歩みを止める。

『――森に、立ち入るな』
「え?」

 じっと、狼がハクアを見つめる。

『ここは、人間にとっては危険な森だ。今回はたまたま助けられたものの、次はな
い。……森から、離れろ』

 何故狼がそこまで言うのか分からないが、ハクアははっきりと首を振って答えた。
 
「ごめんなさい。どうしても……会いたい人がいるので。止められないんです」
『……』

 狼は黙り込み、少し身体を背けて呟いた。

『命を危険に晒すほどのこととは思えない』

 それは正論で、一般的だ。

「私もそう思います。……自分でも、何でこんなに強く願うのか分からないんです」

 本当は、少しだけ分かっている。
 『彼』は、初めてハクアを一人の人間として見てくれた人だからだ。
 女でも、生徒でも、貧乏人でもなく、ハクアとして。
 あのとき初めて、ハクアは誰かに気付いてもらえたのだ。

 だから、刷り込みのように、『彼』に会いたいと言う想いは途切れない。

「どうしても、会いたくて」

 少しだけ弱気になって、ハクアは微笑んだ。
 いつか会えると思わなければ、生きる目標が砕け散る。

『……』

 狼は終始無言で、ただひたすらにハクアを見つめるだけだった。
 唐突に、狼が歩き出す。
 祠の方ではなく、森の奥へと向かって。

『ここまで来れば大丈夫だろう。帰れ』
「あ……」

 放り出されたわけではないのに、ハクアは思わず狼に手を伸ばした。
 微かに触れた手が、狼の毛を動かし、その奥にあったものを日の下にさらす。


「……え?」


 かすかに見えたのは、鮮やかで、不恰好な紐。
 四本の糸で作られたそれは、ハクアがこの間、祠に備えたものと全く一緒だった。
 その紐が、狼の毛の一部を結わえるように、収まっていた。

 その瞬間、ハクアの脳裏で、昔の記憶が反流する。


 聞き覚えのある声。
 何度も何度も思い出した、あの声。

 繰り返し頭を廻るのは、『彼』の声。





 二つの声が、頭の中で重複する。





 去り行く姿が、苦しさを伴って、交差する。







「待って!!!」


 考えるよりも前に、ハクアは駆け出した。
 後先考えず、目の前の黒狼に、飛びついた。

 柔らかな毛の下の、硬い体躯にしがみつく。
 腕の中に、存在を確かめて、ハクアは思い切り息を吸った。

 頭の中は真っ白く、思考は分散し続ける。


『――……』


 文句を言われるか、そうハクアは怯えていたが、意外にも狼は何も言わなかった。
 ハクアの出方を待つように、無言のまま佇んでいる。
 黒狼の鼓動が、ハクアに伝わっている。


「会いたかった……」


 吐き出すように、ハクアは言った。
 目の前にいることが、ハクアには信じられなかった。


 この黒狼は、『彼』だ。


 どんなに姿が違っても、ハクアに刻まれた『彼』の声が、黒狼の声と重なって
いく。
 おかしいとか、人間だったじゃないかとか、そんな考えはハクアには浮かばない。

 ハクアが求めていたのは、『彼』の存在だ。
 『彼』が『彼』であれば、姿は問題じゃない。
 実際に目にして、ハクアはそう思った。

「ずっと――……会って、お礼を言いたかったんです」

 そこまで言って、ハクアは『彼』の身体から顔を離し、微笑んだ。

「あのとき、助けてくださってありがとうございました」

 そして深々と、頭を下げる。
 目頭が、じんわりと熱くなった。

 顔を上げると、『彼』は信じられないものを見るように、ハクアを凝視していた。


『――……』


 何も言わない『彼』の沈黙が苦しくなり、ハクアは誤魔化すように続けた。

「あ、ごめんなさい。覚えてないですよね」

 そうだったら、凄く悲しい。そう自傷しながら、ハクアは言った。

「私、昔あなたに助けて――」
『何故――』
「え?」

 昔のことを語ろうとした瞬間、黒狼が口を挟んだ。

『いや……――俺は、お前と会ったことなどない。勘違いだ』

 それだけ口早に言うと、黒狼は再び足を前に出した。
 が。

『ぐはっ!』

 ハクアは素早く、狼の尻尾を掴んで引っ張った。

『な、な、な、何を……っ』

 焦ったように振り向く狼を、ハクアは真っ直ぐ見つめた。


「間違ってません」
『……』
「間違って、ないです。私が探してたのは、あなたです」

 はっきりと、ハクアは告げた。

「どんな姿でも分かるとは言いません。でも……同じ声で、私を助けてくれました。
絶対に、間違えてなんか……いません」

 ハクアには、迷いはない。
 一度結びついた考えは、もう揺ぎ無い。

『…………』

 それでも、黒狼は何も言わない。
 歩むことなく、否定することなく、ただ無言だ。

「――ヨツメの紐、付けてくれたんですね」
『……ヨツメ?』

 少しだけ、黒狼が声を出した。

「ウォルカの街に伝わる、おまじないです。四本の糸を編みこんで、一本の紐を作
るんです。それを、想ってる相手が持ってくれたら――」

 そこで、ハクアは告げるのを止めた。
 その先を言うほど、まだまだハクアは強くない。

「それ、私が作ったので……だから、あなたが持っていてくれて、嬉しいんです」
『これは……』

 途中で、
 黒狼は口ごもる。

「そんな不細工で悪趣味な紐、何処にも売ってませんよ」
『不細工などでは――っ』

 慌てて否定したとすぐに、黒狼は発言を止める。
 そのすぐ後で、『彼』は、深く深く、息を吐いた。

 同時に、『彼』の体が霞のように薄くなる。

「え!? や、ま、待ってくだ――!?」

 消えてしまう『彼』を引きとめようと、ハクアが伸ばした手の先に、柔らかいも
のが触れた。

 突如として現れた黒い布地。

 目の前に、黒い服を着た、長身の男性が立っていた。
 黒い髪に、灰色の瞳。その姿は、数年前にハクアが見たものと全く変わらない、
『彼』の姿だった。

 驚きで目を見開くハクアの前で、何故か疲れたような形容しがたい表情をした
『彼』が、ため息をつく。
 その『彼』の長めの髪には、ちゃっかりとハクア作の不恰好な紐が絡み付いてい
た。

「礼など、必要ない……俺が勝手にしたことだ」

 ぎこちなく、『彼』の口角が上がった。
 それを見て、氷結していたハクアの表情が、ゆるやかに解かれていく。

「でも、お礼が、言いたかったんです。……ありがとう、ございました」

 言いたいことは、沢山あったはずなのに。
 もう一度『彼』に会ったら、こう言おうと、前から決めていたことがあるはずな
のに、今のハクアには一つも浮かんでこなかった。

 会えるはずがないと、本当は半ば諦めていた。
 なのに、こうしてもう一度会えたことで心が一杯で、言おうとしていたことなど
消え去ってしまった。

「俺が――恐ろしいとは……?」

 歯切れ悪く言う『彼』の言葉の続きは、容易に想像できた。

「恐ろしいなんて、思いません。私はあなたに会えて、ただ嬉しいんです」

 本当に幸せそうに、ハクアは笑みを浮かべた。
 そうだ。
 ハクアは、今、小さな夢を一つ、かなえたのだ。
 『彼』が魔獣だとか、人間じゃないとか、そんなもので今の幸せが損なわれるわ
けではない。

 『彼』は、目を見開いた後、わずかに目を細めた。

「――なら、その礼は受け取っておく」

 口角を上げたまま、『彼』が言った。
 ハクアはそのぎこちない笑顔を見るたびに、夢ではないかと疑いたくなる。
 隠れて手の甲を何度も抓って現実かどうかを確認した。

「森の入口まで送ろう」

 ゆっくりと差し出された手を、信じられないように見た後、ハクアは一瞬で考え
た。

(生。生の手! 差し出されたということはすなわち、握ってもいいという許可と
同意? 直接触れるチャンス……)

 欲望と妄想を心中で繰り返し、ハクアは満面の笑みで『彼』の手を握った。

「くう……っ」
「?」

 思わず感嘆のため息が口をついて出たが、ハクアは慌てて続く言葉は飲み込んだ。

(持ち帰りたいなんて言えない……)

 ハクアはすっかり、周りの環境に毒されていた。

 『彼』の手につかまって立ち上がったハクアが手を離そうとしなかったためか、
『彼』はそのまま彼女の手を引いて、ゆっくりとしたスピードで歩き始めた。

 恐ろしい森のはずが、今のハクアにとっては極上の空間だ。楽園。天国だ。
 憎らしいほど澄み切った空気が、ハクアの頬を冷やす。

 歩くたび左右に揺れる髪を見て、ハクアは飛びつきたい衝動を堪えていた。

 無言で、二人は歩みを進める。
 『彼』が無理に手を離そうとはしなかった事実で、ハクアは舞い上がっていたが。

「あの」

 ハクアは、躊躇いながら声をかけた。

「何だ?」

 割とすぐに、『彼』から返答がある。

「私、ハクアって言います。お名前……聞いてもいいですか?」

 それが、ハクアはずっと知りたかったのだと思い出した。

「ああ……“クロックス”だ」
「クロックス、さん」

 噛みしめるように、彼の名前を呟く。
 ついに!! とハクアは心中で大きな叫びを上げていた。
 そんな些細な感動の中、一つだけ引っかかる。

 クロックスは、赤い獅子が言っていた名前だ。
 ……『クロックスの輩が、爪を与えたな』、そう言っていた。

 ということは。

「あの、昔頂いた爪って――……」

 思わず言ってしまったが、全て尋ねるのは躊躇した。

 噂では、魔獣の爪には、その魔獣の力が宿るらしい。
 “らしい”と言うのは、まだ魔獣の爪を使った杖の存在が明らかにされていない
からだ。
 それゆえ、とても稀少な魔獣の爪は、魔杖の世界では、金には換えられない程の
価値がある。

「――何かの、助けになればと思った」

 少し後悔するように、『彼』は言った。
 その声を聞いて、ハクアは慌てて懺悔した。
 浮かれている、場合じゃない。

 憧れの彼の手を離して、ハクアは黒の魔杖を取り出した。

「わ、私、それでこの杖、作ってしまったんです……ごめんなさいっ。だから、
さっきの魔獣も怒ってしまったみたいで――」

 彼の善意を利用した形で、魔杖を作ってしまった。
 有頂天の分だけ、より恥ずかしい。

「いや、それはいいんだが……使えたのか?」
「え?」

 頭を下げたハクアを、不思議な目でクロックスが見ていた。

「魔獣の爪は、材料には出来ても何の付加効果も与えない。ただ、俺より弱い魔獣
や獣は襲ってこなくなるくらいの効果しかないはずだ」

 その程度の手助けくらいはと、彼はハクアに爪を与えたらしい。
 考え込む彼をよそに、ハクアは再び舞い上がった。

(そんなことまで考えてもらえたなんて……!)

 恋する乙女は、感情の起伏が激しい。
 たとえ“幸運の娘”としての迷惑を被った元凶が彼の爪だと分かっても、ハクア
はむしろ喜んだ。

「まあ、いいか。もうすぐで出口だ、急ごう」

 意外にあっさりと考えを深めるのを止め、クロックスは再度ハクアの手を引いて
歩き出した。
 おそらくは先ほどの惰性で手を繋いだのだろうが、ハクアは感極まって泣きそう
になった。少なくとも嫌われてはいないのかもしれない。


 歩いていれば、すぐ森の切れ目に着く。
 桃源郷をさ迷っていたハクアの心は、手を離された感覚で元に戻った。

「此処まででいいだろ」
「あ……」

 すっと、クロックスは後ろに下がる。
 引き止めてしまいそうに差し出したハクアの手は、中空で止まった。

「……また、会えますか?」

 見上げたハクアに、軽く微笑むクロックスは呟くように告げた。

「――森に、深入りしない方がいい」
「え……」

 告げた瞬間風が巻き起こり、掻き消えるようにクロックスはいなくなった。



「いっちゃった……」

 急に現実に戻ったように、ハクアは周りを見回した。
 誰もいない。
 通いなれた祠の前に、ハクアは立っていた。

 空虚な気分でふと祠の前に目をやれば、今朝供えたばかりのお菓子も花も、その
場から消えていた。

 そこで初めて、ハクアは気がついた。

(クロックスさんがヨツメの紐を持っていたってことは、此処に来てたってことだ
よね)

「……」

 しばらくその場で佇んだ後、ハクアはにやりと笑った。
 恋する乙女は積極的だ。掴んだチャンスは活かせと何かに言われているらしい。
 とは言っても、本人を目の前にしたら、とても出来るとは思わないが。

 その場で数回、深呼吸する。

(よし)

 覚悟を決めて、祠の前にしゃがみこむ。



「好きです」



 満足感と共にハクアが大きめの声で言った直後。
 ボキボキッと、何か重いものが木の上から枝を折りつつ落ちてくる音が響く。

 地面に落下してはいないようなので、良し。

(何が、とは言ってないけど、いいよね)

 ハクアはくふふと笑いながら立ち上がり、祠に背を向けた。

 後ろを振り返りたい衝動に駆られつつも、我慢した。
 何がとも、誰がとも、ハクアは言っていない。聞いた相手がどう受け取るかは、
当人次第だ。

 でも、ハクアの気持ちは、きちんと彼に伝わったようだから。


 まだ高鳴る鼓動のリズムに乗って、ハクアは街へと歩き出した。


(恵みの森、か……)


 にやけながら、森の恵みで栄えたウォルカの街へ。
















 後日。

「おはよー、ハクア」
「あ、ミューシャさん。おはようございます」

 朝、いつものように祠に行った後、店の前でミューシャに出会った。また朝帰り
らしい。

「お花?」

 ミューシャが小首をかしげてハクアに尋ねる。
 ハクアの手には、一輪の花が握られていた。

「えへへ」

 満面の笑みというより、相好が崩れた表情でハクアは笑う。

「な、なんか嬉しそうね……」

 少し後ずさって、ミューシャは続けた。
 ハクアは、話したくて仕方がないように、口火を切る。

「ずっと片思いしてたヒトがいるんですけど――」
「うそ!? 誰よそいつ! あたしの知ってる奴!?」

 凄い勢いで聞き返すミューシャをなだめつつ、ハクアは後を続けた。

「いえ違いますよ。それでですね、毎朝差し入れをしに行くんですけど」

 言葉を切り、ぐふふふと怪しく笑う。

「最近、いつもの場所に花が置いてあるんです」
「は? 何それ」

 ミューシャは、理解しがたいとばかりに顔を顰めた。

「その片思いの相手とやらに差し入れてるんじゃないの?」
「そうですよ?」
「……」

 ますます、ミューシャには理解できないらしい。普通はそうだ。

「えっと……相手に差し入れに行って……花が置いてあるのよね」
「はいっ」

 眩しいまでの笑顔でうなづくハクアだったが、ミューシャはますます頭を抱える。
朝から頭を使わせないで欲しい。

「何で? その相手には会ってるんでしょ? 違う奴からの花が嬉しいの?」
「ええ!? まさか! その人からの花ですよー……顔は見れてないんですけど」

 花が置いてある近くに、大きな獣の足跡。
 あの祠には、彼以外の獣は近寄らないのだから、犯人は限られている。

「……何ソレ」

 何故直接差し入れに行っているのに、花は“置いてある”のか。

「だからですね、私が差し入れに行くと、花が既に置いてあって。私はその花を
頂いて、帰ってくるんです」
「…………相手に会わずに?」
「はいっ。でも、こうして花を贈ってもらえるので、寂しくないです」

 よく注意すれば、彼がいることは分かるのだ。あまり森と関わって欲しくないよ
うなので、姿はあれ以来見ていない。
 しかし、一度も拒否されたことがない。
 差し入れたものは、次の日にはなくなっていて、いつの間にか新鮮な花が置かれ
ていた。

 それを頼りに、ハクアはまだ通い続けている。

「……望み、ありますよね?」

 それでも心配で、男心をがっちり掴むミューシャに、確認してしまった。
 ミューシャは、異様なことしてるわねと思いつつ、ハクアの真剣な様子に、何も
言わずにただ答えた。

「まあ……大丈夫よ。よく分からないけど、頑張ってね」
「はい!」

 安心するように、ハクアは会釈して店の中に戻っていった。







 ハクアの非常に不思議な恋愛話を聞いて、ミューシャはため息をついた。
 ミューシャの考えでは、もしハクアの言ってることが本当なら、十分望みはある。
 ただ。

「……花を貰って、差し入れを置いてくる、か……」

 ミューシャには分からない、淡い想いの応酬。



「――文通みたいな、恋愛だわね」




 





	―終―

 


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