そうしてやってきた『恵みの森』の入口で、ハクアは怯えていた。

 この森の恐ろしさは、聞くだけでも十分なほどだった。
 数多く失われた人々の命。
 それは決して冗談ではなく、現実のものとして森を覆っていた。

 腕のたつ傭兵を雇っても、命がある保障はない。
 それほど、『恵みの森』の生態系は狂っている。
 他では見ないほど強力な魔獣が、この森を徘徊しているらしい。

「其処を一人で行こうって言うんだから、気が狂ってるとしか言えないなあ……」

 ため息をつき、ハクアは持っている荷物から水筒を取り出した。
 森の入口に水をたらし、その上に白い花を一輪置く。
 深くを頭を下げ、もう一度下げる。

 これもコウネ師に聞いた、森への挨拶だ。
 遠い昔の薬師が、森に入る際の許可を求め、安全を願う簡単な儀式。

「気休めでしかないんだろうけど……やらないよりかは、ね」

 森を歩く準備以外に、魔杖が4本。火起し、降水、来風、あとコウネ師に頂いた
緑化の杖。

(緑化の杖……何なんだろう? コウネ師も、自分の師から頂いたらしいけど……)

 旅の間の馬車代や食費を削って購入した『恵みの森』の概略図を握り締めて、
ハクアは森へ足を踏み出した。









             ○ 文通恋愛 ○









「うひぃっ!!」

 やばい変な奇声を! とハクアは自分の口を押さえた。
 森のあちこちで、変な音が聞こえ、視界を陰が横切る。
 小心者のハクアにとって、此処は限りなく心臓に悪い。

「ひ、ひぃ……え、えっと、まずは、この大木を目指さなきゃ」

 実は、ハクアが森を目指したのはこれで3回目だ。
 儀式だけやって、入る勇気が持てずに帰ること2回。
 その2回目に、ハクアは地元のおばあさんに出会った。ハクアの歳で森への儀式
を行う者など珍しいと言って、声をかけてくれた方だ。
 そのおばあさんから教えてもらった、特別な材料や魔獣も関係ない、目指す者など
いないただの大木。

 森に入る儀式には、続きがある。
 最後に、森で最も(とは言わないまでも、ある程度年月を経た)古い木に、水を
供える。そして初めて、森を歩く許可がもらえるのだ。

「だ、誰にも会わないっていうのも、それはそれでこ、怖いよね」

 所在無く、独り言で気を紛らわせつつ、ハクアは歩く。
 暗い、陰鬱な空気をまとう森を、お守り代わりの杖を頼りに大木を目指した。





 物音のみで生き物の姿を見ないまま、しばらく歩いただろうか。
 山裾から顔を出したばかりだった日が、燦然と頭上に輝き始めた頃、ハクアはその
大木にたどり着いた。

「これ……」

 おばあさんが森の主と言っていた大木の根元に、ハクアは息を荒くして立っていた。

「枯れかけてる……」

 大人が10人いても抱えきれないほど太い幹は、今や枯れかけていた。
 周りに背の高い若木が生えたために日の光が遮られ、力を得ることの出来なく
なった悲しい主の姿が、痛いほどにハクアに突き刺さった。

 魔杖を作る際、魔杖師は材料の全てを自分で揃える。
 木を選び、本体を傷めない程度に扱うのも魔杖師の役目だ。
 だからこそ、昔は素晴らしい風格を保っていたであろう古木が、ここまで廃れて
いるのを見過ごすことが出来ない。

 いや、ハクア自身とかぶる部分があって、尚更放置できなかった。
 水と栄養剤をまき、手近な雑草をむしる。

(私……何やってるんだろう……)

 この瞬間に魔獣に襲われるかもしれない。
 獣くらいなら魔杖でどうにかなっても、魔獣に立ち向かえるとは限らない。
 特にこの森は、他とは比べようもないほど高位の魔獣が現れるのだ。

「他になにをしたら」

 基本的なことは全てやった。
 でも、状況は変わらない。あとはこの古木の生命力にかけるしかないが。

「でも何か他にもできること――」

 そこで、初めてコウネ師から頂いた杖――ずっと手に握り締めていた杖を思い出す。

「緑化が何を示すのかはわからないけど、でも」

 今だけは魔獣や命の危険など忘れて、ただ息を整える。
 効能が分からない魔杖を使う場合は、気をつけなくてはいけない。
 通常売られている魔杖ならば危険はないが、この杖は表に出ない秘められた魔杖だ。
 なまじ魔杖のことを知っているがゆえに、緊張する。

 魔杖を使うのは簡単で、そして単純だ。
 ただ杖に定められた音を発してから、振るだけでいい。


『イーニッド』


 杖の名前であり、杖を呼び覚ます音。
 伝説に唄われる、魅惑の魔杖師その人の名。

 杖が熱を持つ、発動状態を感じながら、ハクアは古木に向かって杖を振った。


 ――瞬間、風が巻き起こる。

「!?」

(来風!?)

 火を起こす“火起し”、水をよぶ“降水”、風を放つ“来風”が、程度の差はあれ
魔杖の基本的な能力だ。

 風と共に淡い光が放たれ、古木を包む。

「な、何!?」

 こんな効果、ハクアは知らない。

「どうしよ――あれ?」

 しかし、その後特に何かが起きるわけではなかった。

「え? え? なに? 何もなし??」

 古木をぺたぺたと触りつつ、触診しつつ確かめる。
 特に変化なし。

「こ、コウア師〜……」

 涙目になりつつ、古木の周りをハクアはぐるぐると回った。

「あ」

 目に入ったのは、小さな、小さな新芽。
 先ほどまではなかった変化。

「もしかして、これ……?」

 へたへたとその場に座り込んだ。

 大きな変化はない。
 でも、確かに“緑化”だ。

「………………ま、コウア師らしいか」

 複雑なため息をついて、ハクアは立ち上がった。

「本番、本番」

 そのままその場を、後にした。


『……』

 見つめる視線に気付くことなく。





 * * *






 そして出会った。

「ひいいぃいぃぃっ!! た、助けてく、れっ!?」

 目の前で、人が倒れた。
 いや、倒れている。

 明らかに絶命しているその姿に、足が動かなくなった。

 嫌でも目に入る、その血を流した5人の姿。
 街で見かけた魔杖師と、護衛の傭兵が4人。
 身近な人間の命を絶ったのは、その奥に立つ、赤毛の獅子。
 蛇の尾は、近くに居た動かない人間を襲っていた。

 滴り落ちる唾液が、獅子の足元を濡らしていく。
 むせ返るような魔獣の臭い、血液の臭い。……死の、臭い。

 カチカチと歯がなり、足が震えた。

 今はただ、ハクアの面前に『死』がぶら下がっていた。

『これはこれは……久しぶりの若い娘の血肉が味わえるとは』

「ひっ!?」

 喋った。
 ハクアの予想を超える、生き物。

 魔獣は通常、喋らない。
 言葉を話せる魔獣など、世界で報告されている数でも一握りだ。
 魔力を言語に変換するような力を持つ者は、それほどに少ない。

 じりじりと、怯える様子を楽しむかのように、獅子が近づいてくる。

(や、やだ……っ!!)

 心の中で絶叫を上げながら、ハクアは叫んだ。

『ジオールド!』

 右腰に付けてあった、杖を全力で振る。
 木を簡単に消し炭に出来るほどの火力をもった炎が、杖から放たれた。

「はぁ、はぁ……っ」

 生理的な涙でかすんだ目で、直撃したはずの方向を見る。


『中々に美味な炎だの』


「う、うそ……」

 煙の中からは、その鬣の一部すら失っていない、獅子の姿が現れた。

『しかし炎と言うには、このくらいしてもらわなくてはな』
「!?」

 獅子が大きく口を開け、その喉の奥に光が灯った。
 考えることなく、ハクアは全力で右に逃げた。


 火が爆ぜる音。
 大きな黒煙。
 上から散る火の粉。


 一瞬にして灰と化した森が、ハクアのすぐ横にまで迫っていた。

『ほう。逃げたか』

 白灰の森から、静かに獣が追ってきた。
 先ほどまでいた場所にあった5人の身体は、おそらく灰になってしまっているの
だろう。
 しかしそんなことを考える暇がないほど、ハクアは恐れていた。

『これ以上森を壊すわけにもいかないのでな……楽しい時間は終わりとするか』

 腰を抜かしたまま、ハクアは後ろにさがろうとした。
 だがすぐに違う木に当たって、それ以上下がることは出来なくなった。

『これで終わりだ』

 再び、獅子の喉に光が灯る。

(逃げられない)

 ハクアは最期を意識して、目を堅くつぶった。


『お前は――』


 獅子の驚愕した声が響くと同時に、信じられないくらい強い圧力が首にかかり、
同時に身体が浮くのを感じた。

 何かに振り回されている、そんな感覚に、ハクアは目を開けることが出来なかった。

(ば、馬車でもここまでひどくなかったけどっ!!)

 激しく揺れる身体に、息をつくことも出来ず、そろそろ酸欠に陥りそうになった頃、
急にその身体にかかる風の圧力が止んだ。

「いたっ!!」

 同じく、身体が地面に落ちる衝撃が加わった。

「え、え……?」

 目を開けたとき、景色が全く変わっていた。
 柔らかい草の感覚に、木々の間から差し込む日の光。

(天使の梯子だ……)

 素直にハクアはそう思った。


「大丈夫か」


「へ……?」

 急にかかった声に、ハクアは後ろを振り返った。

「黒……」

 思わず口から漏れるほど、目の前の人は黒づくめだった。
 森を散策するには不十分なほどの軽装。上も下も黒い服、長めの黒髪は一つに
まとめられて、後ろに流れている。
 視線を上に移せば、流線を描く整った顔と、鋭い光を放つ灰色の瞳に出会った。

 恐怖の代わりに、不思議な感覚がハクアを占め始める。

 分からない。
 ただそれだけがハクアの中に沸き起こる。

 ハクアは、常日頃、低めのテンションで生きてきた。
 というよりも、何かアクシデントが起こるような生活じゃなかったためだ。
 耐えることが、ハクアの日常だった。

 だから、そんな気持ちは知らない。

「あの――」

「お前は何故、こんな所にいるんだ」
「え」

 ハクアが言葉を発するよりも早く、目の前の男性から声がかかった。
 その時点で気付いたが、何だかとても綺麗な顔をした男性だった。
 18のハクアから見れば、はるかに大人だ。

「聞こえているか?」
「え。あ、……っ」

 見とれていたのが恥ずかしくて、ハクアは顔だけブンブンと上下に振った。

「ならいい。立てるか?」
「は、はいっ」

 手をとってもらって、立ち上がる。
 立ち上がると、余計にその人との身長差が感じられて、何だかハクアは気後れ
してしまった。

「こっちだ」

 手を引かれたまま、森をわき目も振らずに歩いていく。
 その間ハクアは、ぼうっとしたまま歩いていた。

 死に掛けたことも、ここで目の前の『彼』に手を引かれていることも、現実味が
なかった。

 どのくらい歩いたのかハクアは知らない。
 でも、いつの間にかウォルカを見下ろす高台に出ていた。

「此処で十分だろう」
「――ぇ」

 突然止まった『彼』にぶつかる寸前で、ハクアも立ち止まった。

「其処に、小さな穴が見えるか?」
「へ? あ、えっと……」

 ハクアは目を凝らして、『彼』が指差す方向を凝視した。

「あ、見えます。あの、崖に空いてる小さな穴ですよね」
「ああ。あの穴からウォルカまで、この獣道沿いに下りていける。ここだけは魔獣
も獣も現れないから、安全に街まで行けるはずだ」

 『彼』が話をいち早く切り上げようとしている気配を察知して、ハクアは何故か
慌てて、尋ねた。

「あのっ……あの穴、何なんですか?」

 言っていて、(何そんなどうでもいいこと訪ねてんの!)と自分で思いつつ、
引っ込みもつかないハクアは『彼』を見上げた。

「――……“小さな神”を祀る祠だ」

 何を言おうとしたのか、『彼』は一度口を開け、すぐに閉じてから目を逸らす
ように答えた。

「小さな神?」

 ハクアが続けて尋ねると、『彼』は祠を見つめて続ける。

「あの穴の中央が祭壇のように盛り上がっているんだ。それを見て、昔の人々は
“小さな神”がいるに違いないと、そう思った」

 目を凝らして、どうにか分かるような獣道を指差し、言う。

「この道は、祠から街まで続く参道……。理由は分からないが、森の生き物が近寄る
ことのない、安全な道だ」
「なるほど……」

 ハクアは、祠と獣道を交互に見上げ、頷いた。
 内心、話をどう続けるか脳みそを酷使して考えていたが、考えが出てこない。
 すると、逆に『彼』から今度は話があった。

「お前は、何故この森へ? 屈強な傭兵ならまだしも……」

 上から、見つめる瞳に出会う。
 『彼』は、上から見下ろすけれど、決して“見下し”てはいない。
 ハクアが若輩でも、女性でも、とりわけ秀でているように見えなくても、『彼』は
見下さなかった。

 それは、ハクアにとって初めての感覚だ。

 孤児院では、街では“子ども”として。学院では“身分が下の者”として。男性
にとっては“女性”として。そしてこの街では“傭兵でも雇い主でもない価値なき者”
として、ハクアは見下されてきた。
 だから、単純に対等の者として見られたのは、これが初めてだったのだ。

「わ、私はですねっ その、魔杖の材料を採りに……」
「魔杖……なるほど。材料は見つかったのか?」

 何の意図もなく見つめられる視線に、そろそろ耐えられなくなりながら、ハクア
はどうにか答えた。

「いえ……一つも」

 そういえば何の進展もないなと、気分が落ちてきた。

「また明日にでも森に来なきゃ」
「……それは勧めないな」

 客観的に『彼』が意見を述べる。

「でも、これだけは譲れないんです。絶対に材料を見つけなきゃ」
「――ならば、これを」
「え?」

 無造作に、布袋を押し付けられた。重くはないが、重量感がある。
 でも何より、手が離れてしまったことが少し寂しい。

「森で見つけたんだが、俺には不要なんだ」
「あ、ありがとうございます……っ! なんとお礼を言っていいのか……!」

 思いがけない好意に、嬉しくなって、目頭が熱くなる。
 もしかしたらその嬉しさだけではなかったかもしれないけど、ハクアには分から
なかった。

「礼はいい」
「でもっ」
「では――」

 そっと、『彼』の手が首にかかった。
 大きな手は、ハクアの耳から首にかけて覆ってしまう。
 怖いとか、気持ち悪いとかの感情は無かったのに、何故か一筋涙がこぼれた。

 それを見て、『彼』は無言で手を離した。

「万が一、次に会うことがあったなら、そのときに」

 不思議な表情を浮かべた彼に、ハクアはなおもくらいついた。

「また森に来れば、会えますか!?」

 自分でも、何故ここまで必死になるのかハクアには分からなかった。
 自分の行動に、別の自分が疑問を投げかけている。

「止めるべきだな」

 『彼』は、少しだけ笑って、身をかがめた。


「お前の命は、森で散るべきじゃないだろう?」


 すぐ近く、耳元に、その低い声が響いた。
 声がハクアに染みて、広がっていく。

「――あ」

 次に何か言おうとしたとき、既に『彼』はハクアの見える範囲から消えていた。
 ハクアに何か、焦がれるものを残して。




 それから街に戻ったハクアは、急いで『彼』がくれたものを分析した。
 見たこともない薬草に、見たこともない鉱石。
 どれも辞典で“貴重種”に位置づけられている品種だった。

 しかし何よりも特筆すべきは、辞典にすら載っていない生き物の、爪の欠片と
思われる物が入っていたこと。
 深淵の黒い光を湛えた爪は、おぞましさよりある種の神々しさが放たれていた。

 認定試験の方法は、提出した杖の効力で判定される。
 そのためには、効力が分かるものでなければいけない。
 だから、その不思議な爪を使って製作することはできない。

 ハクアは、爪以外の貴重な品を使って、杖を作った。
 その結果はA+という、学院でも最上位の成績だったのだたが、ハクアがそれを
把握したのは一ヵ月後だった。

 何故なら、学院に滞在できるギリギリの範囲まで、ハクアは杖を作っていた。
 残しておいた材料と、黒い爪を使った、用途のない杖。

 ただハクアは、残しておきたかったのだ。
 『彼』との出会いが残した感情が薄れないうちに、何か形のある物を。







 そしてハクアは、“黒い杖”と、A+を取ったおかげで出た援助金と共に、
 ウォルカの街に来たのだ。

 優秀な魔杖師は、様々な機関から誘いがかかる。
 でもハクアは、全て断った。
 入学当時に夢見た、あれほどこだわり続けた栄光の道を、自ら放棄した。

 講師たちに何度考えを改めるよう言われても。
 クラスメイトたちの鼻を明かすことができなくても。


 『彼』ともう一度会う、そのためだけに。

 
 それが今の、ハクアが初めて自分で見つけた道だからだ。
  


 


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