九、絆【前】

「ぎょわああ!?」

 顔に張り付いているものを急いで引き剥がし、身体を起こした。

「コマ!!」
『きゃふ?』

 引き剥がした依狛のコマは、怒っている理由が分からないとでも言うように首を
かしげている。
 ネーミングセンスはこの際気にしちゃいけない。

「ぐ」

 へっへっへと舌を出してこちらを見つめるコマに勝てたことは一度もない。

「可愛いなぁ、もう……!」

 べろべろと猛烈な勢いで顔を舐められるのには、まだ慣れない。猫舌のように
ざらついていて、正直痛い。可愛い顔してやすり級だ。

「でも可愛いんだよね」
『きゅふ!』

 やや硬めのふわふわのコマに頬擦りしつつ、もう一度眠ろうと身体を倒した。
 ヤシロ効果、ではなく彼の力のせいか、この家の床はすり抜けられない。
 私としても起きたら土中なんてごめんだから、とてもありがたい。ふとした瞬間に
実体化したらと考えるだけでぞっとするし。

 もがいてるのか身体を摺り寄せてるのか謎のコマを抱きしめ、安眠をむさぼろうと
目を閉じたとき。

「シラネ?」

 ……ヤシロだ。
 青みがかった髪の間から寝ぼけなまこでこちらを覗いてくる。

「…………おはよう」
「おはよう」

 いつもとは逆。ヤシロに起こされたことに敗北感を感じるのは何故だろう。

「また?」
「そ。また」

 ヤシロには依狛が見えないらしい。それに、触れられない。
 彼の足元で、見上げるように座っているのに何故なんだろう?

「よっ」

 ヤシロの差し出した手を掴むと同時に実体化すると、コマも身体を伴った。
 どうやら依狛は、主のエネルギーを吸ってるのか、単に影響を受けるだけなのか、
私の状態をモロに受けるようだ。
 ただ、実体化していないときは、私にしか見えないみたいだけど……。

「毎日よくやるね」

 ようやく見えるようになったコマの頭を撫でながら、ヤシロは呟く。
 私は顔を洗おうと、寝起きではっきりしない足取りで裏へ向かった。




「シラネ、今日平気?」
「平気って……まあ、暇だよ。常に」

 ヤシロからコマを受け取っていると、珍しいヤシロの一言。というか予定を
尋ねられたのは初めて。

「街――」
「行くの!?」

 ヤシロから発せられた言葉に、瞬時に飛びつく。 
 さりげなく後方に下がりながら、ヤシロは「うん」と頷いた。
 私は不審人物ですか、おい。

「わあ……ようやくまともな異世界生活が垣間見れるんだ……」

 遠い目をしながら、今までのことが走馬灯のごとく脳裏に浮かんでくる。
 ろくな場所に行った記憶がない。命の危険を感じずに居たためしがない。
 ……そう思ったとき、微妙に背筋がぞくっとしたのはまあ、仕方ないことだ。

「そろそろ菓子の買い置きもなくなる事だし……」
「菓子目当て!?」

 見かけに反してヤシロは甘味大王だ。
 そんなヤシロは物置部屋で何かごそごそと探し回っている。

「ヤシロ?」

 声をかけるとすぐに、部屋から白い布を手に持って現れた。
 無言で私の後ろに回ると、その布を肩にかける。

「これ……」

 布ではあるけど、それは薄手の羽織だった。
 涼やかな線と模様が染め込まれた上質の、白い着物。肌触り最高。

「あげる」
「………………………………は?」

 思わず声を漏らしてから、はっとした。

「い、いや、そういう意味じゃなくって、だから、あのっ」

 まさかあげるとか言われるとは思わなくて、ちょっと驚いて声が出ちゃっただけで、
決して「ああん?」という具合に、いちゃもんつけたわけではなく……っ

 自分でも混乱してる理由が分からないほど焦って、言葉を上手く紡げない。
 顔を片手で隠し、反対の手を「違うから」という意を表すように左右に振っていたら、
足元ではコマが、非動物的に片足で目を覆っていた。

「っ!」

 それを見て可愛いと思うと同時に腹が立ったのは何でだろう。
 むっとしていると、頭に大きな手が置かれた。
 顔を上げればヤシロが片手を私の頭に乗せ、くしゃっと撫でられた。

「ヤシロ……」
「うん」

 何を肯定されたのかはさっぱり分からないけど、ヤシロは一人納得したように
勝手に私の手を取り、玄関に向かう。
 コマはぺたぺたと後をついてきた。

「――シラネの服装は珍しいから」
「……あ」

 言われて思い当たった私の服は、勿論自分があちらで着ていたままの物で、古風な
この世界では思いっきり浮いてるかもしれない。

「鳥居守りは不思議に慣れてるから流したけど、シラネの格好は街では目を引くから」

 着物らしき和装の人々の中では、洋服の私は確かに異質だろう。

「…………ありがと」
「どういたしまして」

 少しだけ振り返ったヤシロは、少しだけ口角をあげていた。
 ……最近のヤシロは、一枚上手のようでやりづらい。

 家を出て、コマがこちらに駆け寄ってくるのを眺めながら、ヤシロに着いていく。
歩みは速くなく、遅くもなく、私の速度に合わせられているみたいで、何だか嬉しい。
 歩くたびに揺れる自分の腕を見て、その思いは少し強くなる。
 綺麗な羽織。淡い様々な青、緑の線が描かれ、白を際立たせている。
 かわいい。

「ヤシロ」
「なに?」

 私たちは無言で歩くことが多いけど、つまらないからとか、話題がないとか、
そういう意味ではなく、まあヤシロとの間には無言が似合うんだと思う。

「ありがとう」
「? さっきも聞いたけど」
「うん、そうなんだけど……ありがと」
「??」

 きっとヤシロにはさっぱり意味がわかってないと思う。
 でも私は、何となく笑いが――いや、笑みが奥から込み上げてくるんだから仕方
ない。
 視線を足元に移せば、コマがまるで飛び跳ねるかのように軽やかな様子で、私たち
を追い抜いて行った。

「もしかして」

 ふと気付く。
 ひょっとして、私の気分がコマにも伝わるんだろうか?
 確かヤシロは、依狛が『主の影響を受けるもの』と言ってた。さっき妙に照れた
ときも、今も、私の気持ちが伝わってるように行動してる。そうだとしたら。

「……気付かれないといいけど」
「シラネ?」

 ヤシロにそのことがバレたらどうしようと焦った。変なトコで勘がいいからなぁ。
 感情が筒抜けなんて、恥ずかしすぎる!

「そうだヤシロ。この着物どうしたの?」

 深入りさせないように話題を変える。

「俺の」
「ヤシロの? それなのに貰っちゃっていいの?」
「ん。……新品でなくて悪い――」
「ありがとう!」

 もう何度目になるか分からない感謝の念を伝える。
 確かに古着を嫌がる女の子は多いけど、私はそう思わない。……相手がヤシロで、
美形だというのも関係してるかもしれないけど。

 ヤシロから手を離して袖を伸ばし、歩きながらくるりと回る。
 動きに合わせて羽織がふわりとなびき、花のような木のような、不思議な香りが
した。白檀とかに近いだろうか? まあ、市販の防虫剤系でないことは確かだ。
 大きめ――というか明らかに大きな羽織は、私に大きな安心感を与える。
 やっぱり、にやけながら私はヤシロに尋ねた。

「似合う?」
「あまり」

 蹴ってやろうかこの男。

「ヤシロ、乙女心が分からないとか言われない?」
「いや」

 即答したよこの人。

「ヒトの心が分からないとは言われる」
「………………………………へー」

 平然とヤシロはのたまった。
 ……ちょっとは気にしなよ。お姉さん、君の将来が心配だよ。

 当の本人は全く気に留めることなく、コマを追いかけるように足を進めている。
 ヤシロはもう少し女心を学ぶべきだ。ヤシロのためじゃなくて、私のために!

「置いてくよ」
「ちょい待ち!」

 私は慌ててヤシロとコマを追った。



 そういえば何処に向かっているんだろう、まさか徒歩で街まで行くつもりじゃあ、
といぶかしんでいた所で、ヤシロが立ち止まった。

「着いた?」
「ん」

 コマが擦り寄るように私の足元を纏わりつき始めたので、持ち上げて胸に抱く。
 ヤシロの横にまで行って、周りを見渡す。

「…………此処?」
「うん」
「………………………………本気?」
「本気」

 繰り返し尋ねたけど、ヤシロの答えは変わらない。

「……私の目には、変わらず森と、あと崖しか目に入らないんですけど」
「そうだね」
「……………………………………………………」

 森を十五分ほど歩いただろうか。私たちが立ち止まったのは、木々の切れ目。
少し開けたその場所は、先に進めば断崖絶壁。景色はいいけど、街との関連性が
掴めません。

「――本当は、気が進まないんだ」
「? ヤシロ?」

 怖いもの見たさで崖から下を覗いていたら、ヤシロのため息が降りてきた。
 崖からの景色は、空と森。前から思っていたけれど、ヤシロが住む森は相当深い。

「いい事が起きる気がしないし、何より反応が分かってるから嫌だ」
「?? 何のこと言ってんの? さっきから」

 見上げたヤシロは、心底気落ちした様子で呟いている。
 先ほどまでいつもの、ぼやっとした表情で歩いていたというのに、どうしたんだろう。

「シラネ」

 ヤシロがそっと、私の肩に手を置く。
 瞳は、真剣だ。

「な、なに?」

 声が微妙に高くなったのを感じて、心臓が大きな音を立てた。
 ああ……やっぱり綺麗だな、ヤシロは。
 今さらながらに思う。
 例えどんなに性格があれでも、ヤシロは間違いなく美人だ。美しいというより綺麗。
 見れば見るほど、公平という言葉は吹っ飛んでいく。
 鼓動が耳障りになってきた。

 ……ぼーっと、ヤシロの観察をしていると、肩にのせるヤシロの手に、力が入った。


「百叩きで許してくれますように」
「は――」

 何言ってんの――そう言おうとした私の声は、再び飲み込まれることとなる。


 とんっ


 軽やかに押された私の身体は、バランスを崩し、後方――崖の先へと傾いていった。
 そして、私の目には、先ほどまでいた大地が遠ざかっていくのが映る。


 ――私は、崖から落ちていた。





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