六、眠り〜間話〜

 暗闇の中で、『彼』はたゆたっていた。
 闇は冷たくも暖かくもなく、無機質で、ただそこにある。

 以前の彼にとって、その空間は彼自身であり、本質だった。

 彼は一つではなく、世界にわたり、広大だった。
 個ではなく、全だった。

 それを不満に思うことなく、また満足もしない。
 彼の『仕事』は、ただこの世界を維持することだけ。
 壊れれば直し、行き過ぎれば――……。

 それが、彼に与えられた『仕事』。

 しかしそれは、終わりを告げる。










「ねえ、コウハ。ヤシロっていっつもこうなの?」
「何が?」

 手土産の饅頭を口いっぱいに頬張りながら、コウハがちらっと私を見る。
 人に持って来ておきながら、食べるのは自分。ズルイ。
 私だって食べたい。

「だから、結界に関わる仕事をした後、こうやってぐーすか寝てたかってこと!」

 ヤシロはまた睡眠中だ。
 確かに、大見姫に関わった、あの仕事は大変だったよ。
 私なんてしばらくビリビリしてる気分だったし。まあ、喉元過ぎれば熱さ忘れる。
 とは言っても、家に戻ったヤシロは、十六くらいの姿になってしまい、眠りについた。
 ヤシロがとっても疲労したことは分かるんだけど、毎回こんなこと繰り返してたの?
 タフ。

「さあ」
「さあって……こら!」
「いて!」

 三つ目の饅頭に手を伸ばしたコウハを、手を叩いて止める。
 若い男の子を苛めるのはちょっと楽しい。
 ……これってオバサン思考?

「そのお饅頭、ヤシロへの手土産でしょう? 全部食べる気?」
「だって、起きねえじゃん、アイツ」
「すぐ起きるかもしれないでしょ。で、『さあ』って何。ちゃんと答えて?」

 これ見よがしに、手をさすりながらお茶を飲むコウハは、じと〜とこちらを上目
使いで見てきた。
 そういうことは可愛い子がやりなさい。
 悪ぶるんだったら、最後までつらぬけっての。
 ……いや、これは新路線? 悪ぶってて甘えっこ?

「俺、知らねえし」
「はあ?」
「仕事と大見姫が来たとき以外じゃ、会ったことねえからさ」
「なに、それ」

 コウハの意外な言葉に、私は軽く目を見開く。

「仲良いのに?」
「……どうだか」

 幼い(と言っても高校生くらいか)男の子らしく、僅かに唇を尖らせて、コウハが
呟いた。

「俺はともかく、ヤシロに『親しいヤツ』なんていんのかな?」
「……どういうこと?」

 一目で、コウハとヤシロが仲良いのは分かる。何だろう、母犬にじゃれる子犬?
 コウハは、不貞腐れながら三つ目の饅頭に手を伸ばす。
 触れる寸前で一度こちらを見たが、今度は文句をつけないことが分かったらしく、
安心して目当てのものを手に取った。

「ヤシロは用事がなければ誰にも会わない。家にはいねえし、普段何処にいんのか
誰も知らない。なのに、仕事の用事のときだけは、家にいんだよ」
「? 今は、ちゃんと寝てるよ?」

 お客を入れられる部屋――もとい、まともな部屋はこの家には一つしかないので、
仕方なくヤシロが寝てる場所に、屏風を立てて仕切っただけの部屋に、コウハと私は
いる。
 だから、後ろにある屏風をちらっと見れば、少しだけ布団の端が見えた。

「それなんだよなあ。前に俺が来たときは誰もいなかった。ホントにヤシロが住んで
んのかも疑わしかったくらいだぜ?」
「えー……ヤシロがしょっちゅう出歩くなんて想像できないけど」

 私のにらみでは、ヤツは引きこもりだ。
 家はおおっぴらに戸締りはしてないし、襖や障子は全開だけど。

「シラネがいるからじゃねえの?」
「え」

 コウハの言葉にどきっとする。
 ヤシロはコウハに、私が人間だということを言ってない。何か考えがあったら
困るから、私も同じく語ってない。

「やっぱ新婚は違うよな」

 少しだけ顔を赤らめて、しみじみとコウハは言った。
 この子の誤解は、いつ解けるんだろう?










 『彼』は、行く気になれば、闇に溶けたままあちこちへ行ける。
 それは空であったり、地であったり、異界であったり。
 でも、それは彼に与えられた『仕事』ではないから、しない。

 彼は、『仕事』以外のことをするのが、好きではない。
 嫌いでもないが、する理由がないから、やはりしない。

 彼が好きなのは、この闇に溶け、個を消すこと。
 ここで、様々な力を受け取ること。

 それでも、珍しいことに、彼は今、『地界』にいた。
 人間たちが住む、異なる界。

 同じヒトの姿をしていても、人間は鬼たちに境界線を引く。
 だから、鬼は人間の存在を信じず、人間は鬼の存在を信じない。
 互いに、互いが御伽噺。

 ならば、あの人間と、境師はどうなのだろう?
 彼らは、丁度線の上に立っているのだろうか?

 眼下に広がる、人間の世界。
 その中でもたった一つに、『彼』は意識を向けた。










「ところでさ、コレ、ヤシロに渡しといて」

 コウハは、大きな茶色の封筒を机の上に置いた。
 ああ、お饅頭の粉がついてる。

「何、これ?」
「報告書。最近、変なことばっか起きてるって話しただろ? 鳥居守りたちの会合で
報告された事柄を、書き記してある」

 私は粉を払いつつ、封筒を手に取った。
 げげ、これ、厚さ二センチはあるよ。

「前の事件の調査結果も書いてあるから、絶対渡しておけよ」
「前の事件って、あの?」
「そう。大見姫の」
「言わないで」

 まだショックが続いてるんだから。
 次会うときは、絶対ヤシロを壁にしてやる。
 コウハが、にやにやしながらこちらを見てくるので、軽く腕をつねった。

「何すんだよ!」

 私は、彼の抗議を無視して続けた。

「で、調査って?」

 コウハは、根が単純ぽいので、新しい話題にすぐ食いついてきた。

「ほら、姫が閉じ込められてた結界あるだろ?」
「ああ……隔絶結界だっけ?」

 コウハは知らずとも、私はアレに痛い目にあわされたのだ。忘れるわけない。

「あれってさ、高等な術なんだ。ヤシロなら簡単でも、普通の奴らは扱えない。
まして、あんなんが自然発生するわけねえんだよ」
「――じゃあ、誰かがわざとやったってこと?」
「そういうこと。翌日、ウチの連中と一緒に行ったら、いつも通りで何ら変わった
ことなし。すっかり元通りだった」
「あの注連縄は? あれが落ちてきた瞬間、結界が張られたんだけど」

 こっちは危うく圧死するところだったんだから。

「なかった。元通りっつったろ?」
「そんな……」

 どういうこと?

「とりあえず、あの結界が張れそうな連中には聞き込みしてんだけどさあ、あんま
期待はできねえな」

 ちっちゃいくせに、一人前の顔で、そんなことを言った。
 幼くとも、彼はプロだ。すごい。

「なんか不気味だね」
「――……そうかもな」










 『彼』が見据えるのは、一つの家庭。
 あれは、『彼女』の家族だ。
 鬼界に入り込んだ異分子――今はシラネと呼ばれる人間の女性の。

 家族は不思議なほど、穏やかな日常を送っている。
 他の人間が見たらどう評価するかは、分からない。
 でも、不安や心配――彼が考える『心配』はしていない。

 彼女は、この世界から消えかかっている。
 存在が、『鬼界』に移ろうとしている。
 彼女は――存在しなかった者に移りかかっている。

 もうすぐ、家族や友人の記憶から完全に消え、地界で、シラネになる前の彼女を
知る者は消えるだろう。
 人間であった『彼女』の痕跡は消え、鬼界で、新たな『シラネ』という生き物が
生まれようとしているのだ。

 それを確認して、『彼』は、自分の個が少し戻るのを認識した。

 やはり、そうだ。
 あの人間が来てから、彼の『日常』は脅かされている。

 どうするべきか?

 彼女はあまりにも、か細い。
 魂のみの、不安定な生き物。
 境師に同化することで、どうにか存在しているに過ぎない。

 消すのは簡単だ。
 そうだ――、『彼』の心は変わらない。










「もう帰るの?」

 玄関でコウハを見下ろしつつ、私は尋ねた。
 彼は、玄関に座って、靴を履いている。

「ああ。暇じゃねえし、新婚の邪魔もしたくねえしな」
「…………いい加減、お姉さん、疲れてきたよ」
「?」

 よく分からない、という表情で小首をかしげるコウハ。可愛いなあ、おい。

「とにかく、ヤシロを頼むな」
「うん。コウハも気をつけて帰ってね」

 よほどの緊急事態でなければ、あの『鏡』(コウハが貞子みたいに出てきたあれだ)は
使わないらしい。というか、ヤシロが呼ばないと使えないんだって。
 取り寄せバッグみたいな物だね。一方通行。

「うん。じゃあな!」
「あ、コウハ」

 走り出したコウハが、立ち止まり、振り返る。

「私は、コウハとヤシロは十分親しいと思うよ」

 ヤシロは無愛想で眠そうだけど、無表情じゃない。
 嬉しければ嬉しそうだし、眠いときはだるそうだし。

「――そうか?」
「うん。シラネ印の保障つき。期間無期限」

 電化製品の保証書を思い出しながら、言った。コウハは何のことか分からないかも
しれないけど。

「……ばーか」

 呟いたと思ったら、コウハは一目散に、駆け去ってしまった。
 でも、顔が紅く見えたのは、夕日だけのせいじゃないと思うし、何より頬が緩んで
たのは、間違いない。

「うーむ、青春。友情っていいねえ」

 オヤジ顔で、私はにやけながら家に入った。

「ぎゃあ!!」

 戸をすり抜けた瞬間、目の前に白いものが立っていたので、思いきり叫んでしまった。

「シラネ……?」
「や、ヤシロ……」

 それはヤシロで、白いのは彼の寝巻だ。

「びっくりした……おはよう、ヤシロ」
「……」

 ヤシロはそれに答えず、じっと私を見下ろしている。
 なんだかいつもと違うと思ったら、今日の彼は大人びている。
 これは……二十歳過ぎたくらい?
 あれ、随分消耗していたわりに、大きくなってる。なんで?

「ヤシロ?」

 いつまでも話さないヤシロが心配になって、再び声をかけた。
 ヤシロのことだから、立ったまま寝てるんじゃあ……?
 年齢が上がったせいで、高い位置にある彼の目を見る。開いてる。

「ヤシロ、平気? おはようって言って、合ってる? それともおやすみ?」

 自分でも何言ってるんだか。
 でも、それを聞き(そのせいかは分からない)、ヤシロは小声で何か言ったと
思ったら、次に、にこりと笑った。

「おはよう、シラネ」

 それだけ言うと、再び居間に戻っていく。

「だ、ダメージまっくす……」

 私はといえば、その珍しい満面の笑みに、頭を撃たれました。即死です。
 なんなんだ、一体。
 今日はコウハも、ヤシロも、サービス良すぎるんじゃないの?
 チップは払えませんよ?

 一度頭を大きく振って、私は彼の後を追い、居間へと進んだ。

「ヤシロー」

「……饅頭の残りは……?」

 恨みがましい声が、私を出迎えた。










 温度も音もない、闇の中で、たった一つだけ違う場所がある。
 定かでない。
 でも、確かに存在するその場所は、暖かく、華やかだ。

 唯一の『彩り』。

 『彼』は、それが好きではない。
 しかし、思う。


 失ったところを、思い描きたくはない、と。


 そうして、より闇でそれを包み込むのだ。

 ――消えないで。

 そう願って。


 ああ、今日も声が聞こえる。
 『彼』を呼ぶ声じゃない。
 『彼』を呼べる者は、もういない。

 表層であっても、それでも『彼』はその声に思いをはせる。

 そうして、彼は個に戻っていくのだ……。



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