五、涙する者【後】

『お主がここにおるから、境師の力は半減されたのじゃ』

 体中から、一瞬にして血の気が引く――体があったら、そうなっていただろう。

「どういう、こと……ですか?」

 大見姫が、面白そうに口角を上げて、真っ直ぐ私を見る。

「主と境師……どういうことかと探っておれば、主ら、魂が同化しておるな?」
「!?」

 答えられないでいる私をよそに、姫は続ける。

「境師の使う術は、魂を核として力を集めておる。しかし今、その魂と繋がりある
主が捕らえられたことで、力の循環が滞っておる。あれでは力は出ぬ」
「そ、んな……」

 喉を押さえたら、呼吸がしにくいのと同じ原理か……。
 つまり、私が足を引っ張ってるということ?
 ヤシロに視線を戻すと、彼はどうにか陣を維持しているようだが、その半径は、
いまや二メートル足らずになってしまっている。

「あの生き物って、何か危害を加えたりするんですか……?」

 否定して欲しくて、大見姫に目を向ける。彼女は焦る様子もなく、言った。

「自ら積極的に『狩り』はせぬ。奴らの捕食方法は、ひたすら待つだけじゃ」
「待つ……」
「縄張りに入ったものを、じわじわと追い詰め、己の体内に取り込み、溶かす」
「!」

 攻撃はしなくとも、ヤシロが捕まったら、お終いということだ。

「しかし――これは異な事。なぜ境師は逃げぬ? わらわ達は結界の中におるし、
コウハがおらぬ今、一時避難し、体勢を立て直すのが常套というもの……。あれ
では、境師の力が先に尽きるぞ」
「なっ――、そんなこと――」

 大見姫の、平らな言葉に反論しようとし、口を止めた。反論できない。私には
想像もつかない、術の行使。私に分かるのは、かかる負担が並ではないという事だけ。

「この程度の判断がつかぬ境師ではないはずじゃが」
「あ――」

 淡々と述べる大見姫の言葉、ヤシロの、全く身動きをとらない様子を見て、そして
思い当たった。

「私だ……」
「?」

 そうだ。私。
 私とヤシロは離れられない。ならば、そのうちの一方が位置を固定されたら、もう
一方はどうなるか。当然、動くことは出来なくなる。

「――なるほど。そんな事まで付随するとは……まあ、考えてみれば当然じゃ。魂が
繋がるということは、ある種一つの個体になるということじゃ。無理に引き離そうと
すれば弊害が起きるというもの……物の道理じゃな」
「――」

 後ろで呟く姫の言葉は、私の脳には染み入らなかった。ただ、ヤシロの、平常なら
ぼんやりとした表情に、見たことのない翳りが現れている一点だけが、頭を占める。
 気のせいか、陣は先ほどよりも小さくなっているようだった。

 どうすればいい?
 ヤシロを助けるためには、私はこの中に居ちゃいけない。

 大見姫が視覚化してくれた、半透明の壁を見つめる。薄い白色の水が遡っている
ような四方の壁は、硬くはなさそうだ。水の壁――そのように見える。
 それでも先ほど、触れれば痛みが走るのは分かった。
 でも、他に方法がないのなら。

「? 娘?」

 大きく息を吐き、吸う。
 確固とした自分の肉体を持たない私では、それに意味があるのか分からないけど、
心を落ち着ける動作が必要だった。

 大丈夫。痛くない、痛くない。痛いかもしれないけど、それほど痛くない。これは
あれだ、えっと……低周波治療! きっと終わったあとには健康になってるさ!
 女は度胸、ど根性! こんなんでビビってたら、子どもが産めるかっての!

「よし――……」

 そして私は壁に向かって足を踏み出した。

 バチバチッ――!!

「あ――ぐぅっ!!」

 痛い。そんなものじゃない。
 体中を電撃が通っているのが分かる。痛みは外に放出されることなく、内側に
留まり、外へ抜けようとすればするほどに、痛みが乗算され、重なってゆく。

「――ぁ……うっ!」

 視界が白で染まっていく。目頭が痛い。
 体全体が叫びを上げる。
 もう、痛みが積み上げられすぎて、痛覚の麻痺が始まっている。それでも、そんな
中、背中の真ん中の辺りで、神経を切られるような、体に通っていた糸が切られる
ような痛みが始まった。
 それは、失ってはいけない気がするのに、自分では止められない。
 まだ、私のどこも、壁を抜けてはいないのに。

「愚か者がっ!!」
「!?」

 突如首に圧力がかかり、私は壁から引き離された。
 遠くのものなっていた音も、身の回りに戻ってくる。
 後ろを振り返れば、やはり大見姫だ。

「何をしておる!? そんなか細い魂の身で、結界に突っ込むものがおるか!」

 すごい剣幕で、大見姫が怒鳴った。

「だって、私、ヤシロの枷になりたくなくて――、嫌でっ……」

 目の周りが熱い。
 鈍っていた痛覚が、徐々に押し寄せてくる。
 痛い。イタイ、いたい……。

「〜〜っだー! 分かったから泣くでない、娘!」
「泣いてません!」

 泣く寸前だけど、そんなみっともないマネできませんっ。
 歳をとった平凡女の涙なんて、顔が不細工になるだけじゃん!

 それでも、悔しくて痛くて、目元を震わせながら姫を振り返ると、姫は自分の
見事な髪をぐしゃぐしゃにしながら、深くため息をついていた。

「いいか? 隔絶結界というのは、本来魂を閉じ込めておくものじゃ。それゆえに
わらわとお主は絶対に通ることができぬ」

 小さい子を叱るように、でも道理で諭すように、姫は言った。

「……? 私と、姫さま?」
「気付いておらぬのか? わらわのこの姿は偽のもの。本体は空におる」
「…………ええ!?」

 だ、だって、姫さまは私と違って、ヤシロやコウハにもさわれてた!

「わらわは龍じゃ。体を一時的に実体化することなど造作ない」
「あ、そっか。……あれ、でも私、今は実体化してないんですけど」
「わらわが、お主に波長を合わせたのじゃ。――しんどいからやりたくはなかった
のにのう」
「う、ごめんなさい……あ、ありがとうございました」
「全くじゃ。魂の傷は癒えぬ。引き裂かれれば消滅する――無知とは恐ろしい」

 せっかくの綺麗な髪を、再び姫はわしゃわしゃとかき混ぜた。

「とにかく、もう二度とあんなことは――おい!」
「え」

 姫の独り言の間に実体化した私は、壁に近づこうとするのを、がっしり姫に止め
られる。

「な、に、を、しておるのじゃ!!」

 先ほどの剣幕三割増し。

「姫さまの説明では、これは魂を閉じるための結界なんですよね? だったら実体化
すれば抜けられるかもしれません」
「…………小娘」

 表情だけは落ち着いた姫さまが、眉間に皺を寄せたまま睨んできた。

「姫さまに助けていただいたことは感謝してますし、結界について教えてくださった
ことも本当にありがたいと思ってます。でも、どうしても私、抜けなくちゃ」

 壁の向こうのヤシロを見る。
 もう陣は、はるかに小さくなっている。大地を踊る赤い文様も、覇気がないかの如く
動きが鈍い。
 ヤシロ自身も、浅く息をついているようだ。
 いつも身体全体に感じる温かさが、鈍い。
 コウハは、まだ、戻らない。

「私とヤシロは、現在運命共同体なんですよ。私がこんな所でのんびりしてたら、
ヤシロは危ない。ヤシロが危ないと私も危ない。どっちにしろ危ないなら、少しは
動いてみないと」

 ――単純に、そう思う。
 肉体がないから身軽なのか、変な世界にいるからなのか。他にも理由があるのかも
しれないけど、今の私は、何故か躊躇しない。
 少し前の――電車に乗る前の私じゃ、考えられなかったけど。
 こんな熱血物語。あ、熱血でもないか。低温物語?

「そういうわけで、行ってきます」
「――待て」

 まだ何か――首だけで振り返り、そう言おうとした私の脳みそは、一瞬にして
凍結した。

 大見姫の頭が、私の顔のすぐ右にある。

 気付いたときにはすでに遅く。

「痛あっ!?」

 右側の首筋に、温かさを感じた直後、鋭い痛みを感じた。
 その点を中心に、身体が燃えるように熱くなる。

「い、い、いいいい今何をっ!?」
「行ってこい」

 とん、と軽く背を押された。壁に突っ込む。

「心の準備が――あれ?」

 痛みはまるでない。
 厚さがわりとあった結界の壁中で、後ろを振り返る。
 大見姫は、目を細めて手をひらひらと振っていた。

 具体的には分からずとも、彼女が手助けしてくれたのは分かった。

「――ありがとうございます」

 たとえ首筋を噛まれたのだとしても。



 しゅぽっ

 コルクが抜けるのと同じ音がして、私は結界から外へ出た。

「ヤシロ!」
「シラネ?」

 ヤシロの陣はとても小さく、結界を一歩出た先には、軟体生物の体があった。

「ふんぎゃあああ!!」

 なさけない叫びを上げながら、体が前傾姿勢のまま傾いていく。
 赤信号、車は急に止まれない。

 このまま謎の肉食軟体生物に顔面激突!?

「!?」

 と思ったのに、体に突如浮遊感覚が走り、気付けば大岩近くの地面に着地していた。

「……平気?」

 やっぱり後ろに居たのはヤシロだった。でも。

「平気だから腰の手をすぐさま離していただけると更にありがたいです」

 私の腰は、ヤシロの手でがっちりホールドされていた。
 多分、咄嗟に私を掴んで、えー、とにかくここまできてくれたんだと思う。あの
浮遊感はきっと、そう、ジャンプでもしたんだろう。
 シリアスな場面だと思うけど、私の脳内では『かえるのピョンタ〜三段跳びで〜』
という、みんなのうたが流れている。

「無事なら、いい」

 私のいかれた脳内を知ることなく、ヤシロは微笑みながら手を離した。
 ……ごめんなさい。
 雨が熱っぽい体と頭を冷やしてくれればいい。

「ヤシロこそ、平気?」
「ん。シラネが戻ったから、力も回りだした」
「――そっか」

 やっぱり、大見姫の言葉は当たってたんだ。

「随分、大きくなったな」

 最初よりはるかに大きくなった軟体生物を見て、ヤシロが言う。
 確かに奴は、小さな民家ならすっぽり覆えるほどの面積を持つ、巨大生物と化し
ていた。

「ねえ、大見姫は大丈夫かな?」

 キングスライムもどきは、鳥居の結界を避けるようにその姿を増しているけれど、
あれがいつ壊れるとも分からない。食べられはしなくても、潰されはしないだろうか。

「龍というのは、鬼より遥かに強い生き物だから」

 大丈夫だ、と言いたいのだろう。

「げげっ! どうなってんだよコレ!?」
「アカ」

 コウハが、右手に奇妙な道具を持って帰ってきた。遅いよ。

「俺んちよりデカイぞ、これ……」

 そうぼやきつつも、ひらりと跳んで、コウハはここまで来た。
 鬼の跳躍力って、どうなってるんだろう?
 再び頭の中で、『かえるのピョンタ』が回りだしたのは言うまでもない。

「ほら、持って来たぞ。でも、これじゃ長さ足りなくねえ?」

 コウハが差し出したのは、赤い三十センチ程度の箱。箱には黒い小さな取っ手が
付いていて、両脇と後ろの面からそれぞれ赤い紐が伸びている。
 両脇の紐は縄と言っていいくらいに長く、先には透明の玉が付いていた。
 後方の紐は、逆に一メートル強ほどしか長さはないけど、先に金色の吸盤が付い
ている。
 前面には、車とかでよく見る、円形のメーターが二つある。そして中央にスイッチ。

「十分。俺とアカが持ち手。シラネに担い手をやってもらう」
「本気か?」
「ねえ、何、それ?」

 話がつかめない私は、さらにわけの分からん役をやらされそうで、口を挟んだ。
 でも、二人は答える気はさらさらないらしく。

「……」

 ぺとっと、コウハは吸盤を私の額につけた。冷たい。

「ねえ、何?」
「おー、こりゃすげえわ。余裕余裕」
「姫が力を貸したみたいだから」

 ぺちぺちと、人の頭を叩きつつ箱のメーターを見て、コウハは笑っていたが、
ヤシロの言葉に目を見開いた。

「マジ? へー……あの女嫌いをねえ。手助けなんてすんの初めてじゃねえ?
意外に悪女だな、お前」
「は?」

 なんか状況把握が全くできない間に、コウハは失礼なイメージを固めたようだ。

「そんなら、なおさら安心だぜ。準備するか」
「アカは左」

 さっさとコウハは、箱の左側の紐を持って、鳥居の方へ行ってしまった。

「シラネはこっち」

 ヤシロはまだ疑問顔の私の手をとり、大岩の目の前まで連れてきた。

「俺がいいって言うまで、実体化を解かないで此処にいて欲しい。できる?」
「そりゃできるけど……ねえ、この吸盤何?」
「あとで説明する。俺が合図したら、この箱の突起を押して」

 突起……ああ、スイッチのことか。

「分かった。ねえヤシロ――」
「じゃあ頼んだよ」

 言いたいことだけ言って、ヤシロはコウハと反対側に、紐を持って行ってしまった。

「少しくらい説明してよね」

 こっちだって疲れてるのに、二人は何の説明もしてくれなかった。

「うう、スライムがうにょうにょしてる……」

 目のまでは軟体生物が、小刻みに震えながら、徐々に近寄ってきているのだ。
気分がとても良くない。
 コウハは鳥居に向かって右、ヤシロは向かって左にそれぞれ立っていて、紐は
丁度私を頂点に三角を描いている。まあ、底辺が足りないけど。
 居心地は悪いし、吸盤でも取ってやろうかと思ったけど、顔を上げればコウハは
大人しくしてろ、って顔をするし、大見姫は目が合った瞬間に艶やかに笑った。

 あれ、姫ってあんな顔したっけ?
 
 少しだけ疑問に思っている隙に、ヤシロが響く声で唱えた。

「始点」

 いつのまに戻っていたのか、ヤシロの左袖の『赤』が動き、縄に絡みつく。

「結」

 続いて『赤』はヤシロの持った紐の先から、コウハの持つ紐の先めがけて、空中を
進み、伸びていく。
 こうして中に陵鬼をいれた赤の三角が完成した。

 一体、今から何が始まるんだろう?

 雨は、小降りになっていた。

「シラネ」

 ヤシロが私の名を呼ぶ。これが合図なのだろう。
 私は大人しく、箱のスイッチを入れた。

 シュウウウウウッ

 霧を吹くかのような空気の音がして、白いもやが紐をどんどん進んでいく。

「ヤシロ! コウハ!」

 何なのこれ!? 危なくないの!?
 二人を見てみたが、平然とした顔で紐を持ち続けている。危なくはないようだ。
 もやは三角形の底辺を進み、やがて白い三角が出来上がる。

「ふやあ」

 続いてやってきたのは、貧血を起こしたときと同じ、眩暈。

 何……?

 立っていられなくて、私は箱の後ろにしゃがみこんだ。
 それでもどうにか顔を上げれば、三角形の紐から白い光が出て、巨大な三角錐を
作り上げている。
 その姿は、先ほどまで閉じ込められていた、結界と同じ。
 ただ、今入っているのは陵鬼だ。
 陵鬼が、びくりとしたかのように、ひときわ大きく揺れた。

「うえぇ」

 貧血状態の私に、今度は圧力が加わる。ホントは圧力じゃなくて、体から力が抜け
ていくのを、そう感じるだけかもしれないけど。
 コウハにヤシロ……覚えてろよ……あの二人は、本物の鬼だ。
 こんな目にあうなら、吸盤投げ捨ててやればよかった――!

 私の恨みは、炎という形で実現した。

「えええええ!?」

 三角形の中に、灼熱の炎が揺らめく。
 陵鬼は、赤と青の炎に紛れ、シルエットしか分からない。
 不思議と三角錐の中だけに炎が起きている。
 外である私には、陵鬼の声も(出しているかは知らない)、炎の荒れ狂う音も聞こ
えない。熱すらも漏れてはいないようだ。
 あるのはただ軽い雨の音。

「ぅぐっ!」

 さらに圧迫感が襲い、私は座っていられなくなった。横に倒れる。雨で濡れた草が、
パシャリと音を立てる。
 炎を収める三角錐は、輝きを増す。
 倒れて見る、その様子は、ガラスの中で炎が暴れているようだった。
 雨すらもはじく空間の中、燃える炎は綺麗だった。

 不意に、その情景は消える。
 同時に、苦しさも消えた。今はだるさだけが残っている。

「シラネ」
「大丈夫か?」

 ヤシロとコウハが駆け寄ってきた。

「おーまーえーら〜……」

 体を動かすのもだるいので、目だけで怒りを伝える。

「あれさ、陵鬼を滅する『火』を起こす道具なんだよ。天候に左右されねえし、注ぐ
力によってさっきみたいな強烈な炎を作り出す」

 コウハが、私の怒りの矛先を避けるように、説明を始めた。

「……注ぐ力?」

 なんだか先が読めてきた。

「担い手が、自分の力――まあ、元気っつーかさ、それを注ぐんだ。吸盤から力を
吸い取って、炎を作る動力にするってわけ」

 こいつら……人に無断で、またそんなことを!

「いつもならヤシロが担い手をやるんだけどさ、今回はシラネのほうが力持ってたし。
あれだけデカイと、念には念をな。失敗するとヤバイしさあ」
「私が死んだらどうしてくれるわけ……?」

 絶対、その可能性を考えてなかったに違いない。おかげでこっちは気分最悪だよ。

「大見姫が珍しく、他人に力を与えてたから、平気だと思って」

 大見姫が……あ。あれのこと? 人の首筋がぶってヤツ?
 だからって、絶対安全とは限らないじゃない。

「今日は厄日だ厄日だ厄日だ」
「ごめん」
「いやー悪い悪い」

 ヤシロはどうだか分からないけど、コウハは間違いなく悪いと思ってない。
 さらに文句を言ってやろうとしたとき。

 ぱきん

 ガラスを割ったような音が聞こえて、大見姫が駆け寄ってきた。

「大丈夫か、娘?」

 姫だけは素直に心配してくれているようなので、こちらも弱弱しくも笑顔を見せる。

「大丈夫です……出れて、良かったですね」

 というか、そんな簡単に出れるものだったんですか? 私の苦労は……。

「ほれ境師、女子をいつまでも濡れた地面に倒しとくつもりか?」
「……」

 姫の、ごもっともな意見を聞いて、ヤシロが私を背負った。

「帰ろうか」
「あ、俺は家に道具返しに行くわ。ついでに今回のことも報告しねえと」
「アカ」

 走り出そうとしたコウハを、ヤシロが呼び止める。

「――分かってる。最近、変な事、通常じゃありえねえことが起きすぎてる。皆に
細かく報告しとくさ」

 真剣に、コウハが答えた。

「空も変だと、付け加えておくとよい」
「え?」

 ヤシロとコウハが、大見姫を見た。姫は、着物で口元を押さえ、眉をひそめて言う。

「近頃、妙な気ばかり空に昇って来よる。さすがにわらわもあてられての。かように
前回と間をおくことなく降りてきたのじゃ」
「空も……」

 二人が、深刻な顔をして空を見上げた。
 雨は、止んでいた。

「了解。変事が多いこと、しかと伝えとく」
「うむ、重畳じゃ」

 深く微笑むと、姫は続けた。

「では――わらわは帰る」
「へ」

 まぬけな声を出してしまった私と違って、ヤシロは冷静に言った。

「早い。いつもならあと三日はいるのに」

 そう言って、ヤシロは空を見上げた。

「そうは言うてもな、わらわはこの上なく満足しておる。空が証明しておるじゃろ」
「まあ、なあ。でも、マジでどういう風の吹き回しだ?」

 先ほどのように、無知というのは苦しみが伴うことが分かったので、ヤシロに、
ここぞとばかり尋ねた。

「空と姫、何か関係あるの?」
「大見姫は、天候を操る龍神。姫の機嫌は空の機嫌。ストレスたまれば荒れ狂うし、
逆に良くなれば、天候も良くなる」
「あ」

 そうか、それでヤシロは『鬼界の台風は嫌だ』って言ったんだ。

「わらわ達龍神は、空の者――本来は地におってはならぬのじゃ。気分が戻れば、
地におる理由もなくなる……帰らねば」

 少し寂しそうに、姫は言った。

「姫……」
「そんな顔をするな。また遊びに来るのでな!」
「俺は嫌だ」
「同じく」

 男二人が嫌そうに首を振るけど、私はやっぱりちょっと寂しい。姫には助けて
もらったし、元気が良くて気分屋なところを抜かせば、楽しい人だし。
 美人は目の保養にもなるしね。

「大見姫、ありがとうございました。私、姫に会えてよかった」

 大見姫が、目をぱちぱちとゆっくり瞬きをする。

「シラネ、そんなこと言わなくていい」

 ヤシロが、眉をひそめて私を振り返った。何その嫌そうな顔。

「だって――」 
「そうか! そうなのか、シラネ!」
「へ?」

 突然名を呼ばれて驚けば、大見姫が、満面の笑みで私を見ていた。

「わらわを好いておるのじゃな?」
「はい?」

 何だかもの凄く意味が強くなってるけど、まあ、間違ってはいないか。可愛いし。

「止めろ! 答えるな――」
「まあ、好きと言えば好きです」
「言いやがったーー!!」

 横でコウハが騒いでいる。
 私の返事を聞いて、大見姫は深く頷いた。

「うむ、うむ。愛いヤツじゃ、シラネ」

 最後の名前を呼ぶところで、大見姫の手が私の頬に添えられる。え。

「そんな、お主に――」

 あ、あれ、あれれ? なんか姫が急に大きくなって――

「『お気に入り』の印を与えようぞ」
「え――」

 ぐんぐんと大きくなった姫の顔が、ヤシロの背にいた私と並んだ。
 ど、どういうこ――

「!?」
「ぎゃーーーー!!!」

 頭が麻痺し、コウハは一人で雄たけびを上げていた。
 ヤシロは体全体で、大見姫から飛びのき、私を背に乗せたまま、姫と対峙した。

「ふっふっふ――これでいつでもお主の所に行くぞ、シラネ」

 そう言って微笑んだ姫の顔は…………姫じゃなかった。
 悠然と笑みを浮かべるその人は、もはやどう見ても――

「お、男の人……?」

 私は、自分の唇に手を当てて呟いた。
 そうだ、あの時、コウハが叫び声を上げたとき、確かに唇に温かみを感じて――
そして、大見姫の顔がすぐ近く――って、

「ぎゃああああああ!!!」

 事実に気付き、恐慌状態に陥った。

「な、何で!? 確かに姫は、さっきまでちっちゃくて、女の子で! でも今は
大きくて、男の人で、人に、人に、キ――ぎゃああああ!!」

 何しやがったーー!?

「おやおや、そんなに慌てては可愛い顔が台無しじゃぞ?」
「そ、そそそそそ」

 そうしたのは誰!?
 横でコウハがぼそりと。

「略奪愛」

 そう呟いたが、私の耳は通り抜けた。

「とにかく『印』はつけたぞ。次に会うときまで達者でな!」

 背の高い、色の薄い金髪の、いまや美しい青年となった龍神は、掻き消えるように
宙に溶けた。衝撃と、嬉しそうな笑顔を残して。

 ぱくぱくと、口を開け続ける私を見て不憫になったのか、コウハが肩を叩いた。

「言ってなかったけどさ、大見姫――女じゃないんだよ」
「だ、だ、だ」
「龍神っつーのはさ、成人するまで両性体なんだ。姫はまだ未成年だから」
「だって、皆『姫』って呼んでた!!」

 さらに深いため息をついて、コウハは言う。

「知ってるか? 大雨ってさ、『龍神の涙』って言うんだ。男の涙より可愛い姫の
涙って思いたいじゃん」


「し、知るかーーーーーー!!!!!」

 私の叫びが、森に木霊する。






「でもなあ、今まで『お気に入り』は男ばっかだったのに。しかも印づけなんて、
噛み付かれて終わりだったけどな。ついに色恋に目覚めたか? おい、ヤシロ」
「塩だ、塩」
「は?」
「塩をまこう。家のどこに置いたかな……」
「……」

 放心した私の前で、そんな会話が行われていたらしい。

「……今回、一番泣いたのは、間違いなくシラネだな」




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