五、涙する者【前】

「……団子が食べたい」
「は?」

 それは、雨が降り続く日々の中で、唐突にヤシロが言い出した言葉だ。

「シラネ、まだ街へは行ったことなかったよね」
「え! 連れてってくれるの!?」

 珍しい! とばかりに、ヤシロを凝視する。

「ん」
「やったーーー!!」

 街だ! この鬼界に来て初めて、賑やかな所に行けるわけだ。
 今まで行った場所といったら、人を食い物にする池とか、命を危機にさらす鳥居
とか、ろくな所じゃない。
 あんなところに頻繁に行くくらいだったら、引きこもりになった方がマシだ。

「でも、こんな土砂降りの中行くの? どうせだったら天気の良い日に行こうよ」

 街の見学!
 どうせヤシロは、一度行ったらしばらくまた引きこもるんだろう。だったら晴れた
日に、思う存分散策したい。

「最近、雨が続いてるから……この隙に行った方がいい」
「隙?」

 雨だから隙がある? 何のこっちゃ。

「そういえば、最近よく降るよね。こっちにも台風ってあるんだ」
「――一応」
「?」
「俺、此処の『台風』は嫌い」
「ここの?」
「鬼界の『台風』は、利己的で我侭で傍若無人な破壊魔だ」
「いや、そんな擬人化表現使われても……台風なんて、そんなものでしょ」
「……」

 心底嫌そうなヤシロにそう言うと、彼は『知らないって幸せだよな』的な目で
見てきた。

「何? こっちの『台風』って、地界と何か違うの?」
「……全くの別物」

 眉間に皺を寄せるヤシロなんて、久しぶりに見た。
 いつもひょろひょろしてるから、こういう真剣な表情をたまに見ると、驚く。
 私の心情は放って置き、ヤシロはのっそりと立ち上がり玄関に向かう。

「こっちじゃ自然に台風なんて起きない」
「? じゃあ、どうやって台風が起こるの?」
「…………」

 ヤシロが無言のポーズに入った。これは、言う気がないときのヤシロの態度だ。
 彼は無言なまま、がらっ、と玄関の戸を開ける。

「あーあ、やっぱりまだまだ土砂降りだ」

 私が暗に、今日は嫌だとほのめかしても、ヤシロは構わず傘に手を伸ばした。

「頑固。ケチ」
「……」

 どうやら今日のヤシロは、何が何でも団子が食べたいらしい。
 そういやこの人は、饅頭が食べたいが為に、わざわざ地界に行くような奴だった。
雨ごときに、行く手を塞がれるような奴じゃないわけか。

「昨日の晩みたいに晴れてくれればよかったのに」

 私がぼそりと、呟くと、思いのほかヤシロの動きが止まった。

「今、何て?」
「だから、昨晩みたいに晴れてくれれば――」
「晴れたの? 昨日? 夜だけ?」
「え、何その食いつき」

 ヤシロが猛然と質問を浴びせてくる。

「シラネ」

 目が真剣だ。何だというのだろう?

「……夜だけ。雲ひとつ無いのに、星も月も見えなくて不気味ではあったけど」
「………………街に行くのは中止」
「え、ホント!?」

 嬉しくって声を上げてヤシロを見れば、彼は平常より顔色を悪くしていた。

「ヤシロ?」
「――奴が来る」
「へ?」

 ヤシロは機敏な動きで、外履きを脱ぎ、部屋に戻る。

「ヤシロ、奴って――」
「伝鬼」
「ききゃ!」

 ヤシロが何か言ったら、顔の前に持ち上げた両手の上に、変な生き物が現れた。

「かわいい〜!」

 出てきたのは、太った白いヒヨコにコウモリの翼をつけた様な、小さな生き物。

「コウハへ。緊急事態、至急こちらへ。ヤシロ」
「きゃふっ」

 可愛らしい鳴き声を残して、ヒヨコもどきが消える。

「なに、今の! ヤシロ、今の可愛いの何?」
「伝鬼っていう、言葉を届けてくれる小鬼」

 つまりは、電話みたいなものか。いいなあ、あんな携帯作って欲しい。
 答えながら、ヤシロは部屋の押入れから、高さ一メートルほどの鏡を取り出した。

「なにやってんの? というか緊急事態って?」
「……大見姫が来る」
「おおみひめ?」

 ヤシロが珍しく、鏡の前に正座し、緊張した顔つきで鏡を見つめる。

「ヤシロー!」
「うわっ!?」

 ヤシロを呼ぶ、焦ったような声と共に、鏡から二本、腕が生える。
 その腕はどんどんコチラに這い出してきて、徐々に赤い硬そうな髪の毛が現れ、
次第に顔も外に出てくる。

「うげー、なんか貞子みたい……」
「アカ」

 出てきたのは、コウハだった。

「おいヤシロ! 緊急事態って何だよ! おかげでウチの連中混乱して――」
「大見姫が来る」
「!?」

 息巻いてまくし立てていたコウハの顔が、音を立てるように青いものに変わって
いく。ヤバイよ、その顔色。

「嘘だろ!? 嘘って言ってくれよ!」
「嘘」
「嘘つくんじゃねえ!!」

 なんだその、矛盾しまくった反応。
 せっかく人が、リクエストに応えてあげたのに。
 立ち上がってこちらを見下ろしていたコウハは、今、両手両膝を畳につけて、
うなだれている。

「マジかよ……今回は随分早い。早過ぎだっての」
「俺もそう思う。でも、シラネが昨日、月のない晴天を見た」
「見間違いじゃねえの?」

 何と言うか、希望を込めてコウハがこちらを見上げる。
 からかってやりたいけど、空気が重いので止めておこう。私は鬼じゃないし。

「ちゃんと見たよ。この姿になってから、視力はいいから見間違いじゃない」

 そうそう、半透明になってから、視力が回復したんですよー。やっぱ、視力は
肉体的なものだからかね?

「終わりだ……もう、終わりだ……そうだと知ってたら、ヘチマの花子にちゃんと
水あげてから来るんだった……」
「アンタ……、ヘチマに名前つけてんの?」

 いや、別に異論はないけど、予想外と言うか裏切られたというか。

「ねえ、さっきから出てくる『大見姫』って、一体誰のこと?」

 揃って重い空気を放つ奴らの片割れ、ヤシロに声をかける。

「……大見姫は、天候を管理する神のうち、白カサギを担当する龍神」
「ふーん……龍。龍……りゅう!?」

 龍ってあの、にょろりとでかくて、空飛ぶアレ!?

「そんなのが此処に来るの!? なんで!?」


「そんなのとはなんじゃ、そんなのとは!!!」


「出たーーーー!!!」

 コウハの悲鳴と同時に、部屋の障子が、ズガーン、と開け放たれた。
 その真ん中二枚の障子は、二つに折れて庭に転がっている。

「久しいのう、境師に、コウハ!」
「ひいいい!」

 コウハが、頭を抱えて縮こまり、文机の下に隠れようと必死になっている。
 どう考えたって無理だよ、それ。
 ちなみにヤシロは、無言で人の後ろに隠れた。いや、私、今半透明だから全く
意味ないと思うよ。

 その二人を恐慌に陥れた張本人はというと。

「わお」

 思わず呟いてしまうくらいの、美しい少女だった。
 色の薄い金色の髪は、さらさらと長く艶やかで、彼女の膝下まで伸び。真っ直ぐに
切りそろえられた髪が縁取るのは、白くすっきりとした小さな顔。
 眼は深い青色で、今は喜びをたたえてきらきらと輝いている。
 実年齢はともかく、外見年齢だけなら十五、六だろうか。
 背が小さいので、可愛らしい。

「きゃほほほ! ほれコウハ、わらわに挨拶はないのか!」

 変な笑い声を出した後、彼女は必死に抵抗を続けるコウハを、机から引き離した。
引き離した勢いで、コウハは押入れの襖に突っ込む。

「痛えっ!!」
「ほほほほ! 愉快じゃ愉快じゃ」

 ……この子、間違いなく嗜虐趣味だ。

「のう境師、次はお主が挨拶を――?」

 満面の笑みをたたえた顔が、くるりとこちらへ向き、そしてヤシロの前に立つ私を
見て、首をかしげた。
 ……可愛い。

「誰じゃ、お主」
「え――」
「なぜ此処におる?」

 離れた居地にいたはずの少女が、一瞬で私の目の前にいる。
 コワイ。
 何だろう、これは……観察されてる、無機質な目。

「彼女は俺の同居人。大見姫には関係ない」
「ヤシロ……」

 さっきまで人を盾にしていたのに、今は立ち位置が逆になっている。

「む……境師に同居人とな? ただの小娘ではないか。しかも――」

 少女、大見姫が目を細めてこちらを見る。
 ま、負けるな私! キモイ怪物たちにだって立ち向かったでしょ! 年下の美少女
に負けてどうする!
 平凡女だって、美少女には負けないところを見せてやるのよ!!
 人間、顔じゃないってな!

「……普通、とは言いがたいが、そやつは人間であろ?」

 コウハに聞こえないようになのか、姫はぼそっと付け加えた。

「し、シラネです。はじめまして」

 それでもコンプレックス系の意地を見せて、挨拶すると、大見姫は少々目を見開き、
言葉を止めた。

「そいつはヤシロの奥方だぜ」
「そこ、嘘言わない!!」

 とりあえず手近にあった鏡の台をコウハに投げつける。

「うおっ!?」

 コウハが避けたソレは、後ろの襖に突き刺さった。襖が半壊状態だったのに加え、
台が尖っていたせいだ。私が怪力なのではない。

「怖ぇ……」

 怯えるコウハを無視して、私と大見姫はにらみ合いを続ける。

「奥方? こやつが?」
「違います。ただのコウハの勘違いです」
「そうであろ。境師が誰かと共にあることなど在りえぬ」
「?」
「大見姫」

 途中でヤシロが口を挟んだせいで、大見姫の発言が止まった。

「ふむ。まあ、震えるだけで、男に甘えるしか能のない小娘とは違うようじゃ。
そうだったら、視界に入れる価値すらない。食ろうてやろうと思ったのじゃが」

 ひいい! この子、もの凄く怖いこと言ってますけど!

「ともかく今は、主らを満喫するときじゃ! 娘、茶を出せ!」
「は、はい?」
「客に茶もだせんのか? 使えぬ娘じゃ」
「む。失礼しました」

 いくら態度に問題が山積みとはいえ、お客はお客。私は台所へお茶の準備に向かう。
 出て行くときに横目で見ると、大見姫はコウハを捕獲し、頭を抱き上げていた。

「シラネ、俺が」
「いいよ。ヤシロはお客様の相手してて」

 台所で、人数分のお茶を準備する。私は飲めないから、三人分だ。正直、茶葉が
あるかどうか不安だったけど、お茶の道具が一式、ちゃんとあった。
 ヤバイ匂いもしないし、茶葉も大丈夫だろう。

「お茶を――」

 再び部屋に戻ると、コウハは横になって大見姫の肘置きにされ、ヤシロは姫と
向かい合って、将棋のような盤上の遊びをしていた。

「ぬぬぬ……境師、お主、手加減というものを知らぬのか?」
「手を抜いたら怒るくせに」
「当たり前じゃ! 勝負の世界に私情は挟まぬ!」

 なんか、意外に平和だ。

「おい、俺が見えてんのか?」

 コウハが何か言ってるけど、まあ、彼と部屋の惨状以外は平和だ。
 何となく二人には口が挟めないので、コウハの隣に腰を下ろす。

「あーあ……姫が来るといつもこれだ……最悪」
「いつも……それはキツイ――って、本人目の前にして言っていいこと?」
「陰で言うよりゃ、マシだろ。遊びに熱中してる時は周りの音なんて聞こえてねえし」
「ふーん」

 話の的の大見姫は、眉間に皺を寄せて盤を見つめている。

「じゃあさ、どうして姫が来るって分かったの? 私には唐突に来たようにしか見え
なかったんだけど」

 コウハはすることがないからか、身動きが取れないからか、私の疑問に丁寧に
答えてくれた。ヤシロなんかよりよっぽど頼りになる。

「さっき龍神は天候を操るって言ったろ? 重大な役目を背負う龍神は、司る力の
規模が違う。だから、仕事のストレスも他の奴らより多い」

 神様なのに、まるで人間社会だ。

「で、だ。ストレスはどこかで発散する必要がある。発散方法は個体差があるけど、
ウチの姫さんは『とことん遊ぶこと』だ。ストレスが溜まると、『お気に入り』の
所に降りて来る」
「……なんか、神様のイメージが……」

 それって、神様? 神様ってそんな人間的? あ、ここじゃ鬼的か。

「大体降りて来る前後は、鬱憤が溜まって大雨が降るんだけどよ、龍神が本当に降りて
来る合図は、月も星もない晴天の晩だ。龍神が発する陰湿な気が、空全体を覆って、
月や星の光が届かなくなるんだよ。一般的には『月隠れ』って――なに? またお前、
こんな一般常識知らなかったわけ?」
「あ、あはははは……だってほら、私『お気に入り』じゃないし!」

 というかそんな、『自分より下がいる!』って嬉しそうな目で見られても。
 悪いのはヤシロ。私じゃない。

「お前が違くても、周りに一人くらいいただろ? 今頃街じゃ大騒ぎだぜ」
「大騒ぎって……龍神って一人じゃないの?」

 私がつい、口を挟むと、コウハがしてやったり、って顔をした。

「やっぱ知らねえんじゃん! 歳ばっかくっててもダメだな!」

 ……このまま鼻と口を塞いでやろうかしら。

「大見姫は龍神の中じゃ子どもっつっても、『神』だぜ? 分身たっぷり作るに
決まってんじゃん」
「うへえ……」

 う、うじゃうじゃ? 街は今頃、姫さまだらけ?
 あー、なんか想像したら気味悪くなってきた。

「まあ、姫は好き嫌いが激しいし、一つの街に一人二人、程度だけど、集まると
うるせんだよ。だからヤシロと俺は、奴が来るとこうして集まって、負担を分散
させるってわけ」
「へー……賢いねえ」

 気に入られてない側としては、あまり深刻じゃないけど。あ、食べられそうに
なったんだっけ、私?

「一人でアイツの面倒見てみろ。俺は死ぬ」
「そんな……」

 大げさ、と言おうとして止めた。確かにやばそうだ。

「もう止めじゃ! 勝てぬ遊びなどつまらん!!」
「いて、いててててて!! テメエ、髪引っ張んな!」

 盤をひっくり返した姫は、その手でコウハの髪を両手で引っ張る。

「ご愁傷様」

 思わず言ってしまった私に非はないと思いたい。

「なんじゃ娘! お主は黙っておれ! さまなくば腹の足しにするぞ!」
「ひいい!」

 コワイよこの子! 今、目が爬虫類だったよ!!
 ああ、コウハのやつ、標的が移ってほっとしてやがる。

「姫」
「なんじゃ!」

 大人しく盤の片づけをしていたヤシロが、視線を少し上げて言った。

「シラネに手を出したら、二度と遊ばない」
「ヤシロ……」

 なんて生き物らしい労わり。いつものヤシロなら間違いなく傍観してるよ。

「卑怯だぞ娘! 境師を味方につけるとは!」

 いや、卑怯と言われても。
 その間にも、大見姫はヒートアップしていき、なんだか空気が熱い。
 彼女を中心に熱風が発生している気がするのは、気のせいじゃないらしい。

「ええい、不愉快じゃ! 何か面白い遊びはないもの――」
「ききゃーっ!!」

 姫が私を睨みつけながら考え込んでいると、伝鬼が大声を上げて現れた。

「黙れ! 人が考え事をしておるというのに、大声を出すでない!」
「き、ききゃ……」

 突如姫は、自分の発言を邪魔するように現れた伝鬼を、ものすごい形相で握りしめる。

「ど、動物虐待反対!」

 姫の形相はあまりにも怖かったけど、姫の手の中でどんどん青くなっていく可愛い
生命体を見たら、手を出さずにいられまい。

「お主、とことんわらわの邪魔がしたいようじゃの……」
「ぎゃあー! 違います、そうじゃなくて――」
「いいけど、ソイツ伝言があんじゃねえの?」

 ナイス、コウハ!
 何だかんだ言って、コウハって常識鬼だよね。若いって素晴らしい。

「ききゃ――『西方領域に綻び発生、直ちに来ていただきたい』――きゃっ!」

 スゴイ、今、伝言部分だけおじさんの声に変わったよ。

「綻び? 馬鹿な」
「ありえねえって。この間発生したときに、俺ら総出で確認したんだぜ? その後に
できたとしても、早すぎる」

 ヤシロとコウハが、それぞれ真剣な面持ちで考え込んでいる中、大見姫だけが
さん然と笑顔を浮かべた。

「綻びということは、陵鬼退治か?」

 その笑顔の裏に、何もないと思いたい。

「多分」
「面白そうじゃ! わらわも行くぞ!」

 はい、やっぱり!
 そう言い張る姫を無視して、ヤシロは廊下へ出て行った。多分、準備をしに行った
んだろう。
 姫は、嬉々として部屋の中を駆けずり回っている。

「大見姫、大丈夫なんですか?」
「何がじゃ」
「だって、危ないじゃないですか。こんな雨の中だし、何かあったら――」
「何を言う。わらわは龍神じゃ。陵鬼なんぞに引けをとるものか」

 姫は自信満々に、腰に手を当て言い切った。
 でも、やはり見た目が少女だし、心配になってしまう。

「姫なら心配ねえよ。陵鬼は、龍は襲わねえもん」
「え」
「ばらすでない! せっかく、わらわを崇め奉らせようと思っておったのに!」

 いや、事実を知らなくても、崇め奉りはしませんよ。

「まあ、ともかく主の無知なる心配は無用じゃ。心意気だけは感謝するがの」
「は、はあ……」

 ん? つまり感謝されてんの、されてないの、どっち?

「多分、不味いんじゃねえの? 食ったら食あたりするとかさ」
「何と言うことを! どう考えたってわらわはぴちぴちしておる!」
「……なんで私のほうを見ながら言うんですか……?」

 確かに、見た目じゃ劣るけど、五臓六腑じゃ勝ってるかもしれない……って、
そんなの自慢できるものじゃないか。
 『自分は内臓的美人です』って、絶対褒め言葉じゃない。

 そして結局、大雨が降りしきる中、四人で西地区の鳥居を見に行くことになった。


   *   *   *


「マジ、ありえねえんだけど」

 伝鬼が案内した、綻びの現場というのは、この間綻びを直したばかりの所だった。

「一番、綻ぶはずのない場所じゃねえか。どうなってんだよ」

 確かに、新しく修繕したばかりの場所が、すぐに綻ぶとは考えにくい。ヤシロが
手抜きしたんじゃなければ。
 当のヤシロは、鳥居に手を当てて目をつぶっている。
 以前は黒く変色していた鳥居は、今では元の朱を取り戻している。
 あれ、でも、前は白いしめ縄なんてかかってたっけ?

「……おかしい」
「? ヤシロ?」
「どこも綻んでなんかない。念のため、後で中央から確認するけど、少なくとも、
今西で綻びが生じている場所はない」

 鳥居を見るヤシロの目は、険しい。それに反応したコウハもまた、顔を顰める。

「イタズラか? もしそうならキレるぞ、俺。ともかく、家に確認してみるわ」
「……」

 イタズラと分かった瞬間に、大見姫が何か騒ぎそうだと思ったのに、意外にも姫は
空を静かに見上げていた。

「――妙じゃ」
「あん?」
「ここの空気は『白カサギ』とは違う。何ぞおかしなものでも紛れ込んでいるようじゃ」
「おかしなものって、アレ?」

 ヤシロが、鳥居奥の大岩を指差して告げた。

「げ」

 私とコウハの声が揃う。
 そこに居たのは、巨大な軟体生物。それは、うにょりと気色悪い動きをしながら
自らの身体を伸張させている。

「キモイ……」

 一言で言えば、それはスライムだ。

「お前の仲間なんじゃねえの? 半透明だし」
「失敬な!」

 確かにスライムもどきはおぼろげに白い、つまりは半透明状態だけど、少なくとも
私は骨がある。いや、今はないけど。

「――あれの匂いではなかったのじゃが……まあ、暇つぶしにはかわらんの。ほれ、
主ら、存分に戦えい」
「お前を楽しませるためじゃねえっての……ヤシロ、どうする?」
「ん……考え中」

 前回は問答無用で切りかかったコウハもヤシロも、今回は乗り気じゃないのか、
スライムもどきを見ながら、立ちずさんでいる。
 その間もスライムもどきは、鈍く動きながら身体の及ぶ範囲を広げている。

「いつもみたいにパパッとやっちゃわないの?」
「――あいつには生半可な攻撃は効かない」

 ヤシロがぼそりと、私に答える。
 ああ、確かに殴っても跳ね返りそうだ。でも、刀なら切れるんじゃないだろうか?

「見てごらん」

 時折、年長者の気配を見せて呟くヤシロの声に、反射的に対象に目を向ける。

「うわっ」

 スライムもどきが身体の一部を切り離すと、そこから新たにうねる別個体が生ま
れた。激しく気色悪い。
 つまり、切っては増えるし、殴る蹴るは意味がない。

「嫌な生き物……」

 陵鬼としても、簡単にやられるために存在してるわけじゃないから仕方ないけど、
侵害されてる方としては、たまったものじゃない。

「ふっふっふ……どう対処するのか見物じゃな」
「大見姫――って、助けてくれないんですか?」
「わらわは天上の姫じゃ。地のことは管轄外でな」

 それって、高みの見物ってことですか?

「姫には期待するだけ無駄だぜ? 今までだって、一度も手を貸してくれたこと
なんてないんだからな」
「お気に入りっていう割には、案外非協力的なんですね」
「弱き者ならまだしも、一定以上の力を持つ者に何故、力を貸さねばならぬ?」

 ……結構薄情だ……。

「わらわは後ろで見学させてもらうぞ。さっさと何かせい」
「――俺、あいつ殴りたい」
「……」

 ヤシロが、コウハの肩を叩いて、首を横に振る。諦めろ、とのことらしい。

「でも何故」
「?」
「綻びがないのに、どうやって陵鬼は入ってきた?」
「前の時、取りこぼしたんじゃねえの?」
「……まあ、アレをどうにかするのが先か……。シラネは姫の所へ」

 納得していない表情でも、ヤシロは刀を構え、身構える。

「離れちゃって、大丈夫?」
「ん」

 コウハが以前同様、私たちに向かってそっぽを向き、しっし、と手を振る。
 違うって。そんな艶っぽい会話じゃないから。
 コウハは知らなくとも、私とヤシロは五メートル程度しか離れられない。私が離れ
た位置にいたら、ヤシロの行動が制限されてしまう。
 でも、ヤシロが大丈夫だって言うんだから、大丈夫なんでしょう。
 私は、鳥居の傍で見物を決め込む姫の傍へ、移動した。

「ホントに平気かな……?」

 いつの間にかスライムもどきは、鳥居を中心とした弧を描くように、広がっている。
 ゆっくりと、でも着実にその身体を押し広げる。

「無用の心配じゃな。境師が負けるものか」
「でも――」

 ヤシロは今、十八くらいの姿をしている。一時期は二十代だったのに、こんなに
若くなっているということは、疲労が蓄積しているということじゃないのだろうか。
 どういう原理で大きくなるのかは、分からないけど、間違いなく疲労してるときは
幼い姿だ。
 だから、今回の陵鬼が弱そうでも、心配なものは心配だ。

「アカ、家から火を借りてきて。アレを内側と外側から燃やす」
「それまで耐えられんのかよ?」
「平気」

 コウハはヤシロの返事を聞くと、鳥居の中を通って、石段を駆け下りていった。
 随分、足が速いけど、それでもヤシロは一人でアイツを相手にできるのだろうか?

「術式――二番、解」

 淡々としたヤシロの声に応えて、左袖の赤い文様が地に溶ける。
 溶けた文様は、広がっている軟体生物よりも一回り小さい円を大地に描き、揺ら
めきながら、半径を広げていく。
 スライムもどきはその赤い陣には触れられないようで、じわじわと、その形を
保ちながら後退を始めた。

「お〜、すごいすごい!」
「境師にしては大人しい手じゃ。前のときはもっと好戦的じゃったが」

 好戦的なヤシロって想像できない。

「まあ、五十年前のことじゃが」
「古っ!」

 ともかく、無言で陣を広げるヤシロが優勢かと思った――その時だった。

 ブチンッ

「え?」

 突然、頭上から音がして、鳥居にかけてあったしめ縄が落下する。

「馬鹿者!」

 急に腕を凄い力で引かれ、バランスを失った私は地面に倒れこむ。
 後ろで、ドンッ、と大きな音がして、風がくる。

「な、なに?」

 私はしがみついていた、滑らかな着物から視線を上にずらした。その先には、
顔をしかめた大見姫が、私を睨んでいる。

「上から物が落ちてきたというに、呆けておる者がどこにおる」
「す、すみません、ありがとうございました」

 さっきの、私の腕を引いたのは姫さまだったらしい。しかし、もの凄い握力と
腕力だ。
 見た目年下の、線の細い少女に助けられたのが恥ずかしくて、私は慌てて体を
起こし、立ち上がる。
 大見姫の、何とも表現しがたい視線に、居た堪れず、しめ縄をまたいでヤシロの
元へ行こうとした。

 ――したのだが。


 バチッ!!

「ぎゃああ!」

 しめ縄を跨ごうとした瞬間、体全体に強い電撃が走る。
 こんな衝撃、ヤシロと出会ったとき以来だ。もちろん電撃の痛さレベル的に。

「なに……?」

 姫さまが、鳥居に寄りかかっていた体を起こし、私の元へ――正確にはしめ縄の
元へ駆けつけてくる。

「これは――隔絶結界じゃ」
「隔絶結界、ですか?」

 知識のない私でも、何となく想像はつく。嫌な予感。

「特別じゃ。視覚化してやろう」

 姫さまが右手をすっと上げると、しめ縄から真っ直ぐ宙へと、白い半透明の壁が
現れた。壁はある程度の高さで直角に折れ、屋根となり、後方の鳥居の天辺に繋がる。
 さらに視線をめぐらせれば、鳥居を真っ直ぐ貫いて同様の壁が作られていた。

 つまり私と姫さまは、半月型の空間に閉じ込められてしまったのだ。

「な、なんで!?」
「原因究明は後じゃ。見よ」
「え――」

 姫さまの指し示す方向には、ヤシロがいた。
 ヤシロの描いていた、大きな円は、今では半分以下の小さいものになっており、
反して軟体生物は体をより巨大化させ、ヤシロをほぼ取り囲んでいた。

「うそ!?」

 どうして? 先ほどまで、あんなに余裕で――。

「……なるほどな」
「大見姫?」

「主だ」
「え?」
「お主がここにおるから、境師の力は半減されたのじゃ」

 姫の言葉が、嫌に響いた。


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