三、海

「ねえ、もうホントに平気?」
「ん」

 この前、コウハに連れられて陵鬼を倒しに行った翌日、ヤシロは目を覚まさ
なかった。寝っぱなし。万年床。
 身長や外見は、今度は十六くらいで、もう完全に少年だ。
 一体、どういう理屈になってるんだろう、この体。
 とにかく、あの『唄』だか『治療』だかは相当の負担になるらしい。
 ああやって、眠って体力の回復を図っていたのでは。
 翌々日、起きたヤシロが何も言わなかったのが、さらに癪に障る。
 というか、なけなしの良心がじくじくと痛んだ。
 だから。

「私……修行したいなー」
「……」

 ヤシロが『何言ってんだコイツ』って目で見てくる。ホントはもっと丁寧かも
しれないけど、そこは気分だ。

「ほら、さわれたりさわれなかったりって、結構重要だって事が分かったわけよ。
あんな痛い思いはしたくないし、コントロールできるようになれば、ヤシロの
陵鬼対策にも安心して、くっついて行けるでしょ?」
「……別にいいのに」
「良くないって。あんなの何度も続いたら、私のピヨピヨハートはお陀仏よ?
第一、ヤシロだって危なくなるじゃない」
「……」

 怖いめになんてあいたくない。
 でも、自分のせいで誰かが傷つくのを見ることほど、嫌なものもない。
 まあ、優しさと言うか、結局自分が見たくないだけかよ、って感じだけど。

「――まあ、離れられないのも事実。分かった、協力する」
「おお、珍しいではないですか」

 あのとき気づいとくべきだったんだ。
 ヤシロは『悪気のない鬼畜』だ。



 ヤシロは、私を外へ連れ出し、鏡とは反対方向にある池に案内した。

「池?」
「そう。シラネ、池の真ん中の方まで飛んでいって。行ける所までいい」
「はあ? ――まあ、いいけど」

 大人しく奴に従った。
 池はさほど広くはないが、水は澄んでいて、上からでも水面下でゆれる水草が
見て取れる。
 あまりに綺麗なので、しばらくぼうっとしていたらしい。
 それが悪かった。

「シラネ」
「ん?」
「頑張れ」
「は?」

 ヤシロは、手をぱんぱん、と二度叩き、一度、右足を踏み鳴らした。
 一体いつ付けたのか、右足には銀の輪が二つついており、それが高い音を、
私のいる場所まで響かせる。

「一体何――ぎゃああああ!」

 急に体が落下し、
 
 ドボオォンッ!
 
 池の中に沈みこむ。

「げほっ、がふっ――ヤシロ!!」

 私は水面に顔を出し、必死に近くに浮いていた木の板を掴む。

「修行」
「これが何の修行!? あれか、頭冷やせってか!?」
「――ここは、たもうりの池」

 タモリ!?
 頭にあの、国民的有名人の顔、というかサングラスが思い浮かぶ。

「ホントはタマオリ。でもそれだとほら、変な想像するといけないから」
「いけないのは考えた奴の頭だと思うよ!」

 ゆらゆらゆれる水面は、とても安定が悪い。
 しかもなんかこの水、綺麗なくせして重い。
 言うなれば、とろみのついた水。片栗粉入れたようなとろとろ感。

「語源は魂檻。魂の檻」
「え」

 体が、だんだん重くなってくる。

「魂を閉じ込めるための池。水には特殊な術がかけられていて、勝手に魂が
外に出れないようになってる」

 ちょ、ものすごく嫌な予感が――。

「だから、シラネもそろそろ引きずり込まれる」
「!? ――わああああがぼっ!」

 急に周りの水が盛り上がり、私の上に覆いかぶさった。私は板ごと転覆し、
再び水の中に戻される。

 やばい、これ溺れる!!
 がむしゃらに上に向かおうと泳ぐも、一向に水面は近くならない。
 近くにある水が、いや、この池自体が、私が上に上がるのを拒んでいるかの
よう。

(魂の状態では外に出れない。上に上がれない)
 
 頭にヤシロののんびりした声が響く。
 って、息――!! 私潜水なんて30秒程度!!

(でも、魂の状態なら水の中でも息ができる)
「それを先に言え!!」

 あー、本当だ。息ができる、というか元々呼吸は関係ないのか。呼吸で
エネルギーを作る必要があるのは、肉体があるゆえだから。

(外に出るには、実体化して岸まで泳ぎきらないといけない。さっきは俺が、
一時的に力を分けたからしばらく実体化してたけど、シラネはまだ瞬間的にしか
実体化できないと思う)

 ああ、だから急に落ちたんだ。

「って、やるならやるって言ってよ!!」
(それじゃビックリしないでしょ)

 驚かせるのが目的かよ!

(とにかく、今のシラネは、自分で実体化できないみたいだからそこで頑張れ)
「頑張れって、全然協力してくれてないじゃん!」
(そういう感覚は、個人のものだから)

 ……そうかもしれないけど。こんな片栗粉池で泳ぎたくない。

「あ、このまま岸まで行って、そこで実体化すればいいんじゃ?」
(入ったばかりの魂は、完全に魂が出れなくなるまでの間、最初の位置から
動けない)
「ちょっと! 今、やばいこと言った! すんごく不穏なこと言った!!」

 魂が出れなくなる?

(……一度入れた魂を、池は二度と外に出さない。一日かけて魂と池を結び、
完全につながりができた後は、池の付近から動けなくなる)
「何それ!!!」

 じゃあ、何? そんな命がけなこと、本人に無許可でやったの!?

(……でも、シラネ、こうしないと真剣にやってくれないから)
「やるよ! やりますよ!!」
(それでも、成果が出ない)

 それは否定できないけど。でも。

「……そこまで、信用ないんだ、私」
(……)

 信頼は、ないと思う。だって出会ってまだ数日だし。
 そんな人を信じて頼りきりになれるほど、私もヤシロも純粋じゃないみたい。

(……俺も、シラネが傷つくとこなんて見たくないよ)

 今の。

(頑張って)

 それを最後に、ヤシロの声が消えた。
 私は無音の世界にとり残される。
 鬼だ、鬼畜だ、人外だ。
 煮立った頭と、体の熱さだけが私に残された。
 何もこんな、現実でデッド・オア・アライブをやる予定なかったよ。頭の中の
人生予定表には書かれてませんよ。

 しかし、悪態をいつまでもつき続けるわけにいかない。
 とにかく、不吉な事実を突きつけられたことだし、やらねば!


  * * *


 できません。無理。
 
 私は、今だ初期位置から微動だにできずにいる。
 いや、言い訳させて。自分にだけど。
 そんな日ごろ、自分の体なんて意識したことなかった。捻挫とかして初めて、
歩けないことを不便と感じた。そして失ってみて初めて、自分がどれだけ肉体に
依存しているのか分かった。
 つまりさ、『意識した』経験がないわけで。
 できるか! むしろ『意識する』ってなに!?

「もう、どのくらい経ったんだろう」

 外に出たくて、ずっと上ばかり見ている。
 太陽は見えないけど、空が朱に染まり始めたのは分かる。

「実は結構やばい?」

 最初以外、ヤシロの声は聞こえないし。
 見捨てられた? おい、無責任だぞ!
 しかし、無反応。空は夕暮れで、一人芝居やってる場合じゃない。
 私は、先ほどまで横になっていた体を縦にして、再び集中に入る。
 そうだ、まずは腕からいってみよう。動くには腕が必要だ。足は後でもよし。

「ここには指がある指がある指があーる」

 指の感覚が掴みやすいように、両手の指先をそれぞれくっつける。位置はここ。
右手で左手の輪郭をなぞり、手のひらの全体像をつかむ。気をつけて、手が透けない
ように。

「んぐうううう」

 しかし、指は爪の先たりとも実体化しない。

「無理! 血管の1本1本意識しろってこと? 医者でもないのにできるか!」

 むしゃくしゃして、体をじたばた動かす。

「だー、こんなこと見本も手がかりもなしにどうしろって言うのよ!?」

 睨む対象すらないので、仕方なく水面を見上げる。あれ?

「……なんか、遠くなってない?」

 私の気のせいでなければ、明らかに水面が遠ざかってる。だって、水面の板が
最初より小さくなってるから。
 急に寒気がしてきた。
 このまま、底まで引きずりこまれるの?
 信じたくなくて、底の方を初めて覗いた。

「!?」

 何か、下から上に向かって糸が伸びてる!
 私は慌ててその糸を見上げようとした。

「あれ、ない?」

 下にはあった糸が、上にはない。

「どういうこと?」

 横にもない。
 変だなー、と思って、そして思考が凍りついた。
 下にはあって、上と横にはない糸。ならば始点はどこにある? そんなもの。

「ひっ!」

 糸は、私の背中から生えていた。さわれないので確かめようはないが。

「な、何これぇぇ?」

 声が震える。
 こんなの生やした覚えない!
 いつ生えたのかは分からないが、最初のころはなかったと思う。ならばこれは。

「これが、つながり?」

 それ以外に考えようがない。もしかして、池に入ったときからあったのかも
しれない。ただ私には見えなかっただけで。
 もしそうなら、これほどまでに『つながり』が強まったということだ。

「やめてよお〜……」

 泣けるものなら泣きたい。
 気のせいかもしれないが、周りの温度も下がった気がする。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。こんなところで死にたくなんてない!

「ヤシロ……助けてよ……!」

 ヤシロの馬鹿!! ここで死んだら本当に、今度は自分の意思で憑りついてやる!

(――シラネ)
「ヤシロ!? 助けて!」
(でき……い。時間が……)
「何!? 聞こえない!」

 さっきより、声がとても遠い。

(ちか……おく……………………ばれ)
「ヤシロ!」

 そして、聞こえなくなった。

「ヤシロ!!」

 ああ、もう何がやりたかったんだ一体。さっきまでずっとだんまりだったくせに、
ようやく放った言葉がそれ!?
 分かったのは、多分時間がないってことと、……なに?

「ちかおくばれ? 違うか。ちか……はまあ力で、おく、おく? ともかく『ばれ』
は頑張れでしょ」

 あんまりヒントにならないよ! 力って何!
 ああ、もうこれほどヤシロのような力があればと思ったことはない。
 そしたら、こんなところ抜け出して、まず引っ叩いてやる!

 ん? と少し引っかかった。

 そうだ、ヤシロと私は繋がってるんだ。ヤシロの力を借りることはできないの
だろうか?
 せこいマネだけど、正論だけじゃ脱出できない。

「ちから、力……」

 ヤシロが不思議な力を使うところを思い出す。私を消そうとしたときと、鏡を
使ったとき、結界を修復したときに、治療のとき。
 ……私、札もないし唄も歌えませんけど。
 ダメじゃん。
 すでに指先からは血の気が引いている。恐る恐る背中の方を見ると、糸が太く
なっていた。

「やばいなあ、やばい」

 体にある熱を保とうとするかのように、自分を抱きしめる。自然と背を丸め、足を
腹部にくっつける。胎児の気分。
 子どもって、生まれてくるとき不安じゃないんだろうか。水の中で。動けなくて。
 あ、母親の鼓動があるから安心なのかな。
 私は、それがない。
 どこかでヤシロと繋がっているのかもしれないけど、私にはそれがわからない。
へその緒で繋がってるわけじゃないし。

 お腹の熱を抱え込むように、腕を抱えた両足にもっていく。

 このまま死ぬのかな?

 そう思いながら、目を閉じる。鼓動だけが感じられる。
 暖かい。
 体勢のせいか、先ほどまでよりずっと暖かい。まるで、お腹を中心に力がわいて
きているように。


 え。


 おかしい。
 鼓動を感じる。暖かさを感じる。
 私は体がない。熱を持たず、鼓動を刻む心臓がない。

 そうだ。
 この姿になってから、私は熱を感じただろうか?
 音は聞こえる。声は出せる。感覚は……どうだろう? 引っ張られる感じとか、
血の気が引く感じとかはあった。でもそれは、私が直に感じたことだろうか。
 軽く叩かれたのに『痛い』と言ってしまうように、生身だったときの延長として
そう思い込んでいた?
 だって、私は、何かの『感触』に覚えがない。実体化したときは勿論ある。
 でも、半透明の時は、ない。
 
 では、この暖かさは、鼓動は何?
 暗くなった水中。生身のままの私なら、ここは『冷たい』と感じるはずだ。
 感覚の延長ではありえない、この現実。

『あったかい』

 そうだ、これは――ヤシロの治療のとき。
 ヤシロが元気付けようと肩に手を置いたたとき。

 これは、私の『暖かさ』じゃない。
 ヤシロのだ。

 水の中なのに、彼が近くにいないのに、彼の力だけ感じる。

「あ……」

『ちか……おく……………………ばれ』
『ちからをおくっているからがんばれ』?

 話しかけてくれなくなったのは、そのせい? ずっと助けてくれてた?

『……俺も、シラネが傷つくとこなんて見たくないよ』
『自分のせいで誰かが傷つくのを見ることほど、嫌なものもない』

 同じ、気持ちだった。
 だったら。もし、立場が反対で、ヤシロが私の立場だったら?
 ヤシロが私のせいで半透明になって、冷たい池の中で独りきりだったら?

「ごめん、ヤシロ」

 助けたいよ。
 助けたい、そう思う。
 ヤシロは根本的には(多分)人がいい。そんな彼が、私を見捨てるはずがない。

 お腹に手を当てる。
 周りが多分冷たいから。まあ、それは実際の感覚ではなさそうだけど。
 とにかく、暖かさが一箇所しかない分、集中しやすい。

 最初は。池に落ちたときは、体全体が暖かかった。今は、お腹だけ。
 これが、『力』なのだとしたら。
 最初の熱は、ヤシロが私に送った『力』の余熱。
 今のは、かろうじてヤシロが保ってくれてる『力』の残り。

 ならば、この『熱』を広げよう。全身にわたるように。
 ヤシロだって、無理に力を送るより、受け入れ準備万端の私に送るほうが楽だろう
(と思いたい)。
 体を意識する、とかじゃなくて。ただ、この熱があることを思い、そして広げ
ようとイメージする。
 間違いでも、今の私にはこれしかできない。
 ううん、これだけはできる。

 大丈夫。ヤシロがいる。


   *  *  *


「ぶはあっ!」
「シラネ!」

 水面から顔を出し、急いで池から上がる。また閉じ込められては堪らない。
 そんな私に、少し離れたところにいたヤシロが走り寄ってくる。
 安心半分、嬉しさ半分といったところか。
 よし、まだ『力』は残ってる。

「シラネ、無事――っ!」

 ヤシロが声にならない叫びを上げて地に倒れる。
 犯人は私だ。

「シ、シラ、ネ……」

 犬のごとくやってきたヤシロの腹部に、拳を食らわせる。ボディーブロー。

「死ぬかと思ったんだから! このクラゲ男!!」
「ヒドイ……」
「違う場所にしなかっただけありがたいと思ってよ」

 すると、ヤシロが恐怖に怯えた顔でこちらを見た。

「まったく……大丈夫?」

 自分で地に沈めたにもかかわらず、私はヤシロに手を差し出した。
 無言でヤシロがそれを掴む。
 あったかい。
 が。

 ドタッ

 ヤシロが再び地に尻をついた。
 いや、わざとじゃないって。

「疲れちゃって」

 疲れて、実体化するような気力が途中で果てた。私の手に掴まって立ち上がろうと
していたヤシロは、当然それがなくなって後方へ。

「鬼だ……」

 じっとりとこっちを見上げてきた。

「ごめん、わざとじゃないんだけど」

 そのわりには悪意がこもってた、とヤシロは呟きながら自力で立ち、歩き始める。
 私は、いつも通り、その斜め右あたりをふよふよと浮遊しながらついて行く。
 ヤシロはおしゃべりじゃないから、会話はない。
 二人でぼやーっと家路を行く。

「そうだ、シラネ」
「ん?」

 途中でヤシロがぴたっと、その歩みを止めた。

「おめでとう」

 ただ、一言そう言って、再び歩き出した。

「――ありがとう、ヤシロ」

 さあ、家に帰ろう。





「ところで、何、クラゲって」
「え、だって『普段だらだらしてるのに、気を抜くと刺してくる』ところが
そっくりでしょ」
「………………」
「まるで海中のように、私は中から海面に漂うクラゲさんを見てたってことだよ」


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